独りでいるのは楽だった。
 自分の時間を自分のためだけに使うのは楽しかった。
 だけどもしかしたら、そうして過ごしてきた私は、とても大切なものを置き去りにしていたのかもしれない。



 ベッドの上、さっきよりも少し近い距離感で並んで座り、私はクライスさんと顔を見合わせた。
「これからのことに関してなんですが…」
 切り出されたシリアスな話題に合わせるように、シリアスな顔を作る。
「さっきも言ったように、これ以上、俺たちに危害が加えられることはないはずです」
「犯人の目星がついてるって言ってましたよね?」
「はい。状況から考えて、おそらく俺の考えに間違いはないと思います」
 言い切ってから、クライスさんが目を伏せる。
「俺のせいでこんなことになってしまって……本当に、申し訳ありません」
 綺麗な顔がしゅんとしていると、見ているこっちの方が悪いことをしているような気になるのはなぜだろうか。 放っておいたらいつまでも落ち込んでいそうなクライスさんに、私は慌てて両手を振ってみせた。
「そんなに気にしないで下さい、本当に。それよりも、これからどうするかを考えましょう」
 こんな発言をしていると、なんだか自分がとても前向きな人間であるかのような、そんな錯覚に陥りそうになる。 実際はただ単に、真正面から謝罪される居心地の悪さから逃れるべく話の流れを変えようとしただけなのだが。
 しかし、そんな私のへたれな内面などまったく気付かない様子で、クライスさんはありがとうございますと頭を下げた。 そしてきり、と表情を引き締める。
「…相手は、俺たちに危害を加えるつもりがない。ここに付け入る隙があります。この場所に連れてこられたのが夕方頃。 それからどれくらいの時間が経ったのか正確なところはわかりませんが、遠からず、向こうからこの部屋の扉を開けに来るはずです」
 クライスさんの言っている意味がわからず、私は首を傾げた。
「食事ですよ。直接的に手を下さなくとも、長時間飲まず食わずで放置したりしたら、人は衰弱します」
 だから必ず、食事を差し入れに姿を現すはずだと。そうクライスさんは断言した。
「でも、そんなにうまくいくんでしょうか…?」
 クライスさんを疑う訳ではなかったが、私はいまいちほっと一安心することができなかった。 今まで生きてきた人生の中で誘拐されたことがなければ、監禁されたことも、そこからの脱出を試みたこともない私としては、 どうしても不安を抱かずにはいられないのだ。本当に犯人は姿を現すのだろうか。そもそも、危害を加えられないという前提が 間違っているということはないのか。そんなあれやこれやが次々と浮かんでは消えていく。
 恐怖はなかった。
 取り乱すほどの動揺もない。
 しかし、心の中にどっかと座りこんだ不安感だけはどうしようもなかった。
「マナカさん」
 呼ばれて、ふっと顔を上げる。
 真摯な瞳と目が合った。大きくゆっくり頷いて、クライスさんが微笑む。
「大丈夫です。俺が絶対に、何とかしてみせますから」
「………」
 ああ、笑ってる。
 クライスさんの綺麗な笑顔に目を奪われながら、私は自分でも驚くほどに、 さっきまでの不安な気持ちが氷解していくのを感じていた。笑顔とは、こんなにも人を安心させる効果のあるものだったのか。
「………信じます、クライスさんのこと」
 どの道、クライスさん以上の考えや提案が私にある訳ではない。
 私は居住まいを正すと、まっすぐにクライスさんを見つめた。
「何か、私にできることはありますか?」



 しん、と静まり返った空気を微かに震わせる、小さな音が耳に届く。それに呼応するように、私の心臓がどくんと鼓動を 大きくするのが聞こえた。閉ざされた扉の向こう側から聞こえるその音は、人の歩く足音。扉の前で立ち止まり、そのまま沈黙する。
 手のひらが、嫌な湿り気を帯びてきた。
 もしかして気づかれているのだろうか。それで、警戒して入ってこないのだろうか。
 自分の心臓の音をこんなにうるさく感じたのは二十四年の人生の中で初めてかもしれない。
 今にも叫び出してしまいそうになるほどの緊張感。さっきのクライスさんの笑顔を思い出して、私は何とかその衝動を堪えた。
 ややあって。
 軋む音を伴って、ゆっくりと扉が開かれたのがわかった。その後に、少しして足音が続く。どたばたと何やら騒々しい物音と、 がちゃんと何かが壊れる音、そして。
「―――っ!」
 言葉にならぬ、盛大な悲鳴が響き渡る。
 クライスさんには声をかけるまでじっとしているように言われたが、流石に我慢できず、私はがばっと起き上った。 現在進行形で発せられている悲鳴の発信源へと目を向けると、クライスさんに右手を後ろに捻りあげられて、 激しく悶絶している人の姿がそこにあった。少し長めの金色の髪を振り乱す、仮装用と思しき装飾性の高い仮面をつけた男。
「痛い痛い痛いっ…!」
 離してくれというようにばしばし叩かれているのをまったく気にしない風で、クライスさんは半開きの扉を足で蹴り開ける。 そこまで思い切り蹴ったようには見えなかったが、扉は若干デンジャラスな音を立てて全壊、もとい全開になった。
 あまりに呆気ない幕切れに、私は逆にぽかんと口を開けた。
 犯人が部屋に入ってきたときに注意を引き付けられるよう、私にはベッドで大人しく寝たふりをするという任務が与えられていた。 布団やら何やらを集めてうまいこと人一人横たわっているような膨らみをつくり、クライスさんから預かった上着を着せて カムフラージュしたその隣に寄り添うように寝る。たったそれだけのことで緊張していた自分が馬鹿みたいに思えてくる。
 クライスさんは無表情に誘拐犯の男の顔へと空いた方の手を伸ばすと、男の仮面をむしり取った。 そしてその下から現れた男の顔を見て、ため息をついて、一言。
「…やっぱりお前だったか。セイエン」
「………って、知り合いですか?」
「はい。こいつは…」
「セイエン?どうしたの?」
 クライスさんの返事を待たずに、慌てた様子で新たな闖入者がやってくる。
 誘拐犯同士で名前呼んだらまずいだろ、という私の心ばかりのつっこみは、その人物の顔を見た瞬間吹き飛んだ。
「セイ…!?」
 開け放たれた扉と完全にクライスさんに関節を決められている男とを見てはっと息を飲んだのは、メイド姿の少女。 それは私の着替えを手伝ってくれたり、食事を持ってきてくれたり、色々と身の回りの世話をしてくれた少女だった。 ふんわりとした癖っ毛とわずかに垂れたまなじりが可愛らしい、人形のような容姿だったからよく覚えている。
「え…え?」
 あんまりな急展開に、頭が混乱してきた。
 しかもその混乱に輪をかけるように、また新しい声が響く。
「やあ、ようやく見つけた」
「怪我はないか?」
 いつの間にかメイド少女の後ろに立ち、そう言ってこちらを覗き込んでいたのは、フェルローさんとレオンさんの二人だった。



 メイド少女は、名前をラスというらしい。そういえば世話になっている人間の名前すら知らなかったという事実に、 今更ながら自分の気の回らなさを痛感する。
 あの後、助けに来てくれたのだというレオンさんとフェルローさんの二人を含めて総勢六人にもなった私たちは流石に手狭に 感じられる部屋を脱出し、場所を移動していた。閉じ込められていた部屋を出てすぐの、上に向かう階段を登る。程なくして、 また別の部屋に出た。
 やや雑然とした印象のあるその部屋は、セイエンと呼ばれた誘拐犯のものらしい。ここまでの道すがらに聞いた話によると、 誘拐犯のこの男は王宮付き薬師の一人で、しかもなんと、クライスさんたちの従兄弟にあたるらしい。まさかと思って訊いてみたが、 ロゼリアラさんの息子ではないとのことだ。なんとなく、がっかりしたようなほっとしたような微妙な気分になる。 セイエンさんが城の中に与えられている部屋の内、今いるのが居住用の部屋で、私とクライスさんがさっきまで閉じ込められていた 部屋は薬草の調合や保管のために造られたものとのことだった。薬草の中には光を嫌うものもあるため、 わざわざ地下室になっているのだという。
「…で、どうだ?キスくらいしたか?」
 絨毯の上に直接転がされたセイエンさんとその隣のラスさんを、私とレオンさん、フェルローさん、 そしてクライスさんがぐるりと取り囲む。八つの瞳に見つめられる中で、セイエンさんはおもむろにそんなことをのたまった。
「………はぁ?」
 この世界の人間のテレパシー能力とやらには、好調不調の波があるのだろうか。言葉の意味は理解できるが、 何を言っているのかまったくわからない。
「………セイエン」
「何だ、もしかしてまったく手を出してないのか?」
 ちっと舌打ちせんばかりの顔。折角二人きりにしてやったのに、などとぶつくさ言う。
 一体何なのだろう。これではまるで、私とクライスさんをどうにかするために、この人はこんな誘拐じみたことを しでかしたみたいではないか。
 ちらりとクライスさんを見るが、特に驚いた素振りは見受けられなかった。ただわずかに眉間にしわを寄せて、 こめかみの辺りを揉んでいる。
「しかしクライス。お前、何もいきなり襲いかかることはないだろ。だいたいお前が僕にかかりきりになっている間に、 他の仲間が現れたらどうするつもりだったんだ。軽率すぎるぞ」
「今回の件がお前の仕業だろうことはわかっていたし、お前が何を考えてこんなことをしたのかも、甚だ遺憾だがだいたい予想はつく。 お前が俺たちに怪我をさせることはないだろうし、お前の思いつきに協力するような人間はラスくらいしか考えられない。 お前とラスの二人だけなら、俺一人でもなんとかなるだろうと判断したんだ」
「僕だってわかっていたなら、少しくらい手加減してくれてもいいだろうに」
 普通に交わされる二人の会話。
 なんだか、頭がくらくらしてきた。おかしい。ついさっきまで私たちは、誘拐犯人と被害者という関係だったはずなのに。 異世界人の考えは理解ができない。
「…なあクライス。大切な人が自分の隣にいてくれるっていうのは、幸せなことだぞ」
 場違いなまでの傲岸不遜な態度から一転、やけにしんみりと語って傍らのラスさんを見る。セイエンさんの視線を受けて、 ぽっと頬を染めるラスさん。何やらいい雰囲気を辺りに撒き散らす二人。おそらく、そういう関係なのだろう。
「僕はお前にも幸せになって欲しいんだ」
 だからって、いきなり誘拐した上に監禁することはないだろう。
 そんな私の内心のつっこみなど知らぬ風で、にやりと笑ったフェルローさんが変にまぜっかえす。
「どうせならクライスじゃなくて、俺を応援してくれたらいいのに」
「応援する理由がない」
「冷たいなあ。俺だって、クライスと同じ親戚なのに」
「……従兄弟だから、こんなことしようと思った訳じゃない。クライスだから…友達だから、何かしたかったんだ」
 だから応援する理由がないと。セイエンさんはそう言い放った。
 がつんと殴られたような、そんな衝撃が私を襲う。
 友達だから。
 本当に、たったそれだけの理由で、セイエンさんはこんな騒ぎを起こしたのか。
「………」
 悪びれた様子の微塵も感じられないセイエンさんの横顔を見ながら、私はふと考えた。
 私には、こんな風に無茶苦茶をしてでも応援してくれるような友人がいただろうか。 こんな風に、無茶苦茶をしてでも応援したいと思える友人がいただろうか。



 きっと、そんな人、私にはいない。






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