過去を覚えているということは、結構難しいことだと思う。どんなに強烈で、衝撃的な出来事であってもそれは変わらない。
 思い出は次々と塗り替えられて、新しいものへと変わっていく。
 人は、忘却する生き物だ。



 視界一杯に、端正な男の人の顔がどアップになる。
「………」
 はて、この格好いい外人さんは、一体誰だっただろうか。
 ぼんやりとして、頭がうまく働かない。
「マナカさん、大丈夫ですか?」
 薄目を開けたきり動かない私を覗き込んでくる青い瞳。まっすぐなその眼差しの持ち主を、私はすぐに思い出した。
「クライスさん…?」
「はい、俺です。気分はどうですか?」
「きぶん…」
 目の前の人物の名前はなんとか思い出したが、それ以上ものを考えるのがひどく億劫だった。止まったままの脳みそが うまく質問を理解してくれない。
「気分…は、眠いです……」
 なんだかとても眠い。寝たい。
 欲望に忠実に、再び眠りにつこうとする私を邪魔するように、クライスさんが話しかけてくる。
「おやすみなさいと言いたいのは山々なんですが…。マナカさん、ひとまず起きてもらえませんか?」
 控えめに体を揺すられる。
 なぜクライスさんは私の睡眠を邪魔するのだろうか。というかそもそも、なぜクライスさんがいるのだろうか。
 お邪魔している身とはいえ、一応は私のものとして使わせてもらっているこの部屋に。
 そこまで考えて、ふと私の中に疑問が生じた。
 フェルローさんと話をして。一人で散歩に出て。バルコニーから外を眺めて。その後、部屋に戻った記憶がない。 いつの間に私は眠ったのだろう。
 さっきまでの猛烈な眠気も一気にどこかへ吹き飛んで、私はがばっと起き上った。薄暗い室内を見回して、驚く。
 部屋が暗く感じるのは、窓がないせいだ。一般日本人の感覚に馴染んだ、つまり城内の一室としてはかなり手狭な空間がどん、と 圧迫感を与えてくる。そして部屋の実に半分以上のスペースを占拠しているのは、大きな大きなベッド。
「………」
 暗くて狭い室内。男女が二人きり。大人二人くらいゆうに横並びになれそうなサイズのベッド。
 何の嫌がらせかと思うくらいに、いかがわしいシチュエーションなのは私の気のせいだろうか。
「クライスさん、これは…?」
 一体どういうことなのかと、最後まで言葉が続かなかった。その代わりに万感の思いを込めてクライスさんをじっと見つめる。
「…すみません、マナカさん」
 謝らないで欲しかった。嫌な予感がしてしまうから。
「多分これは、俺のせいです」
 クライスさんのその真面目さが、今は少しだけ恨めしかった。



「状況は見ての通りです。俺たちは、この部屋に閉じ込められている」
「俺のせいっていうのは…?」
「犯人の目星はだいたいついているんです。犯人が、こんなことをした目的も」
 すみませんと、もう一度クライスさんは謝った。
「俺の見通しが甘かった。そのせいで、マナカさんをこんな目に遭わせて…」
 椅子のないこの部屋では、ベッドの上に座る以外は床に直接座ることになる。クライスさんは、まるで物語の中で、 従者がお姫様にひざまずくように床に膝をついていた。クライスさんの方が王子様だというのに、これでは逆じゃないかと いささか場違いな考えが頭をよぎる。
「あの、クライスさん」
 場違いついでに、私はクライスさんをちょいちょいと手招きした。
「そんなところにいないで、こっちに来ませんか?自分だけベッドに座るのは気が引けるので」
 あっけらかんとした私の様子にクライスさんが目を見張る。
「……怒って、いないんですか?」
「うーん…」
 怒る怒らない以前に、混乱しているというのが正しい。いきなり異世界召喚なんてされてしまったくだりから、 今のこの誘拐じみた監禁状態まで。立て続けに色々なことがありすぎて、私の常識的な思考回路はオーバーヒートしていた。 あまりに今までの日常とかけ離れすぎていて、どういう反応をすればいいのか思いつかないのだ。
 目が覚めたばかりのときは状況がまったくわからなかったせいでうろたえてしまったが、一応の現状把握ができたおかげで、 少し気分も落ち着いた。そして後に残ったのは、はぁそうですか、という何とも気の抜けた相槌だった。
「よく考えたら、巻き込まれるとか今更ですし」
 とりあえず、一人でなくてよかったと思う。出会ってまだ三日しか経っていないが、それでも、知っている人間が傍にいると それだけで心強い。
「…俺の考えが正しければ、これ以上の危害が加えられることはないはずです」
「私たち、この部屋から出られますか?」
 目下のところ、一番重要な問題がそれだ。
 何もないように見えてその実、トイレや洗面室などしっかりと完備されていて、切羽詰まった事態になることはなさそうではあるが、 私にはタイムリミットがある。五体満足であっても最悪、失業という社会的な痛手を負う可能性があるのだ。
「俺が絶対に何とかします」
 クライスさんは迷いなく断言した。
「すぐに、ここから出られるようにしますから。だから………嫌いに、ならないで下さい」
「え………?」
「俺のこと、嫌いにならないで下さい」
 一瞬聞き間違いかと思ったが、繰り返し言われて、それがまぎれもなくクライスさんの口から出た言葉なのだと悟る。
「クライスさん…」
「マナカさんが好きです」
 もしかしたら私は今、人生最大のモテ期を迎えているのかもしれない。今だったら朝のニュースの占いコーナーで、 ハートマークがぶっちぎりで十個くらいついてしまうんじゃないだろうか。
「………」
 わかっている。こんなことを考えてしまうのはすべて、私が現実逃避しているからだ。まっすぐに受け止められないから、 ふざけて茶化してうやむやにしようとしている。
 しかし今回ばかりは分が悪かった。二人きりで閉じ込められて、逃げ出すことのできない現状。今までとは状況が違う。
「………そんなこと言ったら、本気にしますよ」
 だから私は、ぽつりと言った。
「私、馬鹿だから。そんな顔して、そんなこと言われたら、本気にしちゃいます」
 レオンさんも。フェルローさんも。クライスさんも。
 私なんて玉座のおまけでしかないとわかっているのに。彼らの囁く優しい言葉を、つい本気にしてしまう。本気になってしまう。
 なんていう、自意識過剰。
「本気ですよ」
 しかしそれでも、クライスさんは揺るがなかった。
「レオンとフェルローがどう思っているかはわかりませんが、俺は本気です。本気でマナカさんのことが、ずっと好きでした。 初めて会ったあの時から、ずっと」
 ふと、クライスさんの台詞がひっかかった。
 わずか数日前に顔を合わせたばかりの人間を相手に、こんな言い方をするものだろうか。これではまるで、もっとずっと前から、 私のことを知っていたかのような。
「…クライスさんも、私のこと見てたんですか。レオンさんと一緒に」
「それもあります。でも、それだけじゃない」
 マナカさん、と。
 名前を呼ばれて、鼓動が速くなる。息苦しいくらいの緊張感。
「マナカさんは覚えていないかもしれませんが、俺とマナカさんは、前に一度会ったことがあるんです。ずっと前、十年以上も昔に」
 予想だにしない展開に、私はさっきまでのひどい緊張も忘れて、ぽかんと間抜け顔でクライスさんを見つめ返した。
 





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