いつか王子様が迎えに来てくれる。
 そんな他力本願な変化をまったく望んでいなかったかと言えば嘘になる。自分から変わるのではなく、 誰かが自分を変えてくれることを、もしかしたら心のどこかで待っていたのかもしれない。
 しかしまさか、本当に王子様が迎えに来るなど、一体誰が想像するだろうか。
 しかも異世界に召喚されてしまうなんて、もはや、洒落という以外の何ものでもなかった。



 ふと気が付くと辺りは既に日も落ち、薄暗くなっていた。
 あの後、あまりの事態にそれ以上ものを考えることを放棄した私は、のそのそと大きなベッドに 這い上がると頭からすっぽりと布団を被り目を閉じた。やはり夢を見ているのではないか。目が覚めたら、 すべて元の通り戻っているのではないだろうか。そんな一縷の希望に取りすがっている間に、 本当に眠ってしまったらしい。
「………やっぱり、夢じゃないんだよね」
 ぐるり見回した室内は、眠りにつく前と同じ、スイートルームばりの豪勢なものだった。いや、 むしろ本当にスイートルームなのかもしれない。なぜならここは本物の王子様がいるような場所で、 自分はその結婚相手なのだから。
 我ながら、自虐的なことを考えてしまった。
 ふと扉の向こう側から物音が聞こえたような気がして、私は寝起きのだるい体を引きずって歩いた。 ノブに手をかけたところで少しためらって、それから、意を決してそれを回す。細く開いた隙間から 廊下の様子をのぞき見るが、誰の姿もなかった。代わりに、白い布のかけられた大きなバスケットが 置いてあるのを見つける。
「サンドイッチと…この瓶は、ジュース?」
 誰かわからないが、これは私に差し入れてくれたと考えていいのだろうか。
 そういえばこちらに喚ばれる前に夕食を食べて以降、何も口にしていない。自覚した途端に、 猛烈な空腹感が襲ってきた。食べて大丈夫なのかという不安が一瞬よぎったが、結局、 私はありがたくそれを頂くことにした。毒を盛るくらいなら、眠っている間に何かしているだろう。
 少し固めのパンにハムとチーズと野菜が挟まったサンドイッチは、コンビニの一ついくらのものとは 一味も二味も違った。かなり美味しい。半分くらい食べたところで、瓶の中身を一緒にバスケットに 入っていたグラスに注ぎ、ぐいと飲み干す。
「………これ、お酒?」
 さっぱりとした甘さの向こうに、ふわりと広がるアルコールの香り。間違いなくジュースではない。
「やけ酒でも飲めってか…」
 がっくりときた。
 ぴりぴりと張り詰めていたものが、ぷつんと音をたてて切れたような気がする。
 はぁーっと長いため息の後から、笑いがこみ上げてくる。衝動に任せてひとしきり笑い、 目尻に浮かんだ涙をぬぐう。
「なんか、もう、馬鹿みたい」
 深刻になっている私の方が馬鹿みたいだ。
 ロゼリアラさんが言った通り、ちょうど今はゴールデンウィークの連休中だ。仕事は休みだし、 休日の予定も特になかった。ちょっと遠い外国に旅行に行ったと思えば、この無茶苦茶な状況も 少しは楽しめる。旅費もかからないだろうし、何より、食事の面でかなりの期待ができそうだ。
 なんとか前向きな方向に頭を切り替えると、私はもう一杯、グラスにやけ酒を注いだ。



「頭痛い…」
 翌日、私は目覚めた瞬間から激しい頭痛と戦っていた。原因ははっきりとしている。ずばり二日酔いだ。 普段あまりお酒を飲んだりしないくせに、調子に乗って一瓶すべて空けてしまったせいだろう。
 コンコン。
 部屋に響いたノックの音が、頭に響く。
「……どうぞ」
 こめかみの辺りを指で押さえながら、なんとか返事をする。
「失礼するぞ。……っと、なんだ、体調でも悪いのか」
「ちょっと、色々とありまして…」
 わずかに眉を寄せたレオンさんを適当な言葉で濁す。
 二日酔いだ、なんてことを正直に言ってしまうのは、非常に格好悪い。別にことさら自分を格好良く 見せる必要はまったくもってないのだが、その辺りは単なる、私のささやかなプライドだ。
 しかしそんな私の虚勢を見透かすように、レオンさんの後ろからひょいと顔を出したフェルローさんが にやりと笑った。
「ああ、二日酔いだね。薬を持ってきてよかった」
「………」
「いらないなら、もって帰るけど」
「………頂きます」
 相手の方が役者が上だ。
 私はあっけなく降参すると、素直にフェルローさんの手からなにやら液体の入ったグラスを受け取った。 二、三度においを嗅いでから、一気に飲み干す。薬というからには当然苦くて不味いものだろうと 思っていたが、予想に反して、意外と悪くない味だった。
「…ありがとうございました」
 からかうような態度は癪に障るが、私が二日酔いに苦しんでいたのは事実であり、フェルローさんに 助けられたのもまた事実だ。私はフェルローさんに向かうと、頭を下げた。
 頷いたフェルローさんが手を差し出したので、空になったグラスを手渡そうとしたところを、 素早くとらえられる。さっとグラスを取り上げられて、空いた手に、そのままあっという間もなく 口付けられる。
「どういたしまして」
 ひどく艶っぽい微笑み。
 一瞬、息が止まるかと思った。
「なっ、何を…!?」
 慌てて手を振り払い、自分の手を取り返す。
「何って…どうせ礼を言われるのなら、態度で示して欲しいなと思って」
「態度って…」
 見た目は文字通り王子様のような美貌だが、言っていることはただの変態と変わらない。
「レオンには口付けを許したのに、俺は駄目なんだ?傷つくなぁ」
 大仰な仕草で天を仰ぐ。この男が本当に傷ついているのか否か、その態度からまったく窺い知ることが できない。
 どうしよう。
 どう反応を返したらいいのだろうか。
 実際にはほんの数秒にも満たない程度の時間だったのかもしれないが、私には永遠にも感じられた間を 置いて、助け船はすぐ近くから出された。
「フェルロー。あまり失礼なことはするな」
 レオンさんの背後に後光が差して見えた。
 しかし次の瞬間、今度は当の仏様に助け船を沈められる。
「マナカが困っているだろう」
 会って間もない男に、普通に呼び捨てられてしまった。
「困らせようと思ってやっているんだから、それでいいんだよ。 俺はマナカの困った顔が好きなんだから」
 また呼び捨てられる。
 確かに、外見からして彼らはファーストネームで呼び合う外国人タイプだ。ロゼリアラさんも 当然のように私の名前を呼び捨てていた。しかし、それとこれとは話が違う。どちらも同じ美形とはいえ、 女の人に呼び捨てられるのと男の人から呼び捨てられるのとでは、受け取る側の心情がまったく 異なってくるのだ。特に私のように、免疫のない人間にとってそれは毒にも等しいものとなる。 つい、どきどきしてしまうのだ。
 だから、いつの間にかすぐ傍らに立っていたクライスさんが私を呼んだとき、その呼び方に 少しほっとした。
「マナカさん」
 ああ、『さん』付けだ。
 名前で呼ばれていることに変わりはないのに、『さん』というたった二文字が付いているだけで、 自分でも驚くほどに安心する。
「すみません、マナカさん。二人とも悪気があるわけではないんです」
 すみませんの対象にフェルローさんだけでなくレオンさんも入っているということは、 昨日のことも含めてクライスさんは謝罪しているのだろうか。手にキスするなどというスキンシップの 習慣がない私としては、挨拶というより正直セクハラのように感じられた行為だったが、 こうして面と向かって謝られてしまうと怒るに怒れない。そもそも文化の違いなのだろうし、 悪気があってやっているのではないことは、頭では重々承知している。
「もういいです。過ぎたことですし」
 ため息とともに私は首を振った。
 それを聞いてクライスさんは、安心して、思わず表情が緩んだという風に、ふっと微笑んだ。
「よかった」
 生真面目な目元が、口元が、笑うとどこか可愛らしい雰囲気になる。もしかしたら意外とまだ 若いのかもしれない。
 ぽかんと、ただ私はその笑顔に見惚れた。
「…マナカさん?大丈夫ですか?」
 間近に覗き込まれて、はっと我に返る。
「す、すみません。つい…」
「つい?」
「………」
 あなたの笑顔に見惚れてました、なんて恥ずかしい台詞は口が裂けても言えない。 とりあえず私は笑って誤魔化そうと試みた。
「あはははは…何でもないです」
 我ながら、実に胡散臭い。
 しかしクライスさんはそれ以上追及しようとはしなかった。いい人だと思う。こんな異世界で 出会ったのでなければ、もっとよかったのに。
「二人はすっかり打ち解けたようだな」
 レオンさんがそんな、ややずれたコメントをする。そういうレオンさんの方こそ、 フェルローさんとのいつ終わるとも知れない口喧嘩を気付かぬ間に終了し、仲良さげに二人並んで 立っていた。
「さて。親交も深まったところで、さっそく本題に入らせてもらおう」
 注目、というように二、三度、高らかに手を叩く。
 私はというと、レオンさんの発した『本題』という単語になんともいえない嫌な予感がふつふつと 湧き上がってくるのを感じていた。この王子様は、今度は一体どんな無茶振りをしようというのだろうか。
「…本題とは、何でしょうか?」
 ハリネズミのように警戒心を身にまとって、恐る恐る尋ねる。
 そんな私の心中を知ってか知らずか、レオンさんは実にあっけらかんと笑った。
「デートをしよう、マナカ。私たち三人と」



 『デート』と『三人と』。
 もはやどちらに突っ込めばいいのか、私にはわからなかった。






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