they sing,their song　第２章：狩人 ⅰ

　澄み切った空色が遥か遠く、どこまでも広がっている。穏やかな日差しの下、玄関先に置いた肘掛け椅子に腰掛けて、老人がうたた寝をしている。道端で談笑する若い娘たちが、ちらちらと視線を送ってくる。
　その好奇の眼差しを受け流し、シュバルツは先程教えられた、この町でただ一軒の宿を目指した。
　人に見られることには慣れていた。特にこの町のように、主要な街道から少し外れた土地では旅人という存在自体が珍しいのだろうが、そうした地を訪れることも初めてではなかった。
　目的の場所にはすぐに到着した。看板のようなものはなく、滅多に訪れることのない旅人よりも、町の人々のための食堂や酒場がメインとなっているのだろう。
　ともかく中に入ろうと近付いた瞬間、入り口の扉が内側から、勢いよく開けられた。同時に飛び出してきた何かが、シュバルツに思い切りぶつかる。
「きゃっ」
　後ろに倒れそうになる少女の腕をつかんで引き寄せる。そのまま少女は、シュバルツの腕にすっぽりと収まった。
「大丈夫か？」
　立たせてやると、少女は大きな瞳を更に開いてシュバルツを見上げた。シュバルツの胸辺りまでしか身長がないせいで、見上げる角度はかなり急だ。
「ありがとう」
　にっこりと、花がほころぶような笑顔。
　中からもう一人、女の声が聞こえてくる。
「デイジー、気をつけなさい！」
「ごめんなさーい」
　おざなりに返事をして、シュバルツにもう一度ぺこりと頭を下げると少女は走り去っていった。
　後から出てきた母親と思しき女が少女の背中に向かって叫ぶ。
「暗くなる前に帰ってくるのよ！」
　はーい、と返事をする声だけが遠くから返ってきた。軽くため息をついてから、女がシュバルツに向き直る。
「ごめんなさいね、騒がしくて。旅の方？」
「ああ。部屋は空いているか？」
　シュバルツの問いに、女は肩をすくめてみせた。
「ええ、お客さんはあなただけよ。ユタへようこそ、旅人さん。何もない町だけどゆっくりしていってね」

　案内されたのはベッドが二つとテーブル、チェストが一つずつ器用に配置された、小さな部屋だった。しかし隅々まで掃除が行き届いており、整えられたばかりのシーツもほのかにいい香りがした。簡素だが気持ちのいい、上等な部類の宿だと言えるだろう。
　肩に担いでいた荷物を放り、ベッドに腰掛ける。旅装も解かぬままに、シュバルツは先程、宿の女将と交わした会話を思い出していた。

「あなた、どこから来たの？」
　女将がベッドにシーツをかけながら質問する。
「アラザナの町から」
「まあ、わざわざアラザナから。ユタには何か用事があって？」
「色々と事情があってね」
　適当な返事ではぐらかす。
　女将も本気で詮索するつもりはなかったのだろう。てきぱきと手を動かしながら、あらそうなの、と相槌を打った。
「そういえば、少し前にアラザナで人殺しがあったんですって？小さな女の子が殺されたって聞いたわ。何か知っている？」
「…誰からそれを？」
「馴染みの行商さんから。最近、同じような事件が多いらしいわね。犯人まだ捕まってないんですって」
　怖いわねぇと、さほど深刻ではなさそうな様子でつぶやく。
「行商のおじさんが言うには、事件の起こる場所が、少しずつ移動してるみたいだって。この町も通るかもしれない、なんて言うのよ」
「………」
　途中からシュバルツがまったく返事をしなくなったのも気にせずに一人で喋るだけ喋ると、女将はごゆっくり、と言い残してさっさと部屋を出て行った。

　やはり、次はこの町か。
　本人は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、ユタを通るかもしれない、という行商人の言葉がシュバルツの推論を確信へと近付ける。
　アラザナから続く街道には二つのルートがある。まっすぐ東へと進んで大きな都市に出る道と、南東に向かい、このユタの町に出る道だ。両者を比べた時に、大都市を目指すとはどうしても考えられなかった。
　今シュバルツが追っている相手は、自身が逃亡者であるということを誰よりもよく知っているように感じるのだ。不必要な混乱を招かぬよう手配書の類は出ていないため、町の人々に混じって生活を送ることも不可能ではない。各地を転々と、放浪する必要などないはずだった。これまで訪れてきた場所も、人目を避けて移動を繰り返してきた結果のように思えた。
　生真面目とも言える罪の意識。後を追えば追うほどに、相手がどのような者なのかがわかってくる。一度も会ったことのない、それどころが顔すら知らない相手に対して自分が好意的な感情を抱いていることを、シュバルツはとうに気付いていた。
　アラザナで事件があってから既に五日となる。途中の町や村では特に何事も起こらず、ユタを出て次の町を目指すとなると更に数日がかかる。行動を起こすとすれば、もうそろそろのはずだった。
　シュバルツはベッドに仰向けに倒れると、くすんだ木目の天井をにらみつけた。

　教会の奥の奥。一般の礼拝者では立ち入ることすら叶わない場所の、その一室に老人はいた。肌は枯れ枝のように生気がなく、時折訳のわからないことをつぶやいては、鳶色の瞳がぼんやりと宙をさまよう。
　哀れな老人はシュバルツに目を止めると、途端にはっきりとした口調で喋り始めた。
「わたしは、騙されたんだ。あいつは…悪魔だったんだ」
「そのことで話が聞きたい。最初からすべて話してくれ」
　傍らに立ち、自分を見下ろしているシュバルツに向かって、老人は壊れたように言葉を吐き出していく。
　ただ一人の孫息子を亡くし、絶望した自分に、悪魔がいかに巧妙に取り入ってきたか。いかに自分を騙し、そそのかし、恐ろしい行為へといざなったのか。
「人形を…あの、テッドの姿をした化け物を早く殺してくれ。あんた、そのために来たんだろう？」
　痕が残るのではないかと思うほど強い力で、老人はシュバルツの腕をつかんだ。
「養ってやった恩も忘れて、わたしを殺そうとするなんて…」
　化け物め。吐き捨てるようなつぶやきは、憎しみすら感じられる。
　あまりのあさましさに、シュバルツは吐き気がした。老人につかまれた場所から、どろりとした何かが流れ込んでくるような気がする。すべてを他のせいにして、自身には何一つ責任などないのだというような態度。そうやって、自分の心を守っているのだろう。人間が弱い生き物だということは知っていた。しかしそれでも、シュバルツは老人への嫌悪感を抑えることができなかった。
　老人の手を、思い切り振り払う。
「そいつは殺す。だが、あんたのためじゃない。俺が生きるためにだ」
　自らの命のために、言われるがままに他を殺す。
　そんな自分自身もまた、シュバルツは大嫌いだった。

　シュバルツの首には、ぐるりと一回り痣がある。

　元々、シュバルツは異端の子供だった。
　母親はシュバルツがまだ十歳の頃、魔女裁判にかけられ処刑された。本来ならば、魔女の血を継ぐ者として一緒に殺されるはずだった子供の命を救い、引き取ったのは親の仇でもある教会だった。
　その行為が、単なる哀れみや施しでないことはすぐにわかった。
　教会はシュバルツを殺さず、代わりに異端の者たちを狩るという役割を与えた。異端の者の始末は、異端の者に。教会の忠実な犬となることの証として、シュバルツの首には痣が刻み込まれた。赤黒い色の、まるで首輪のようなその痣は、目にする度にシュバルツをみじめにさせる。
　子供は、生まれてくる時に親を選ぶことができない。自分自身の力ではどうすることもできない理由によって、シュバルツは最下層へと落とされたのだ。
　これからシュバルツが狩ることになる相手と、シュバルツは同じだった。生まれた瞬間に世界の敵となることが定められた存在。そこに、自らの意思が介在する余地はなく。ただひたすらに運命に流されて、それでもなお、生きようともがいている。
　生みの親である老人に拒絶されて、人形はどんな思いを胸に抱いたのだろうか。
　怒り。憎しみ。悲しみ。絶望。
　どんな思いで老人を傷つけ、逃亡し、そして今この瞬間を過ごしているのだろうか。

　肌を撫でる風の冷たさに、シュバルツは目を開けた。
　開け放たれたままの窓から見える空は、いつの間にか深い紺色になっている。どうやら眠っていたらしい。顔に垂れかかる黒髪をかき上げる。
　夢を見ていた。昔の夢だ。昔のことなど、もうほとんど思い出すこともなかったというのに。今更になってよみがえる。
　自分は一体どうしたいのか。
　シュバルツは自嘲した。
　いい思い出などほとんどない。そんな過去を思い出し、自分と似た境遇の人形に同情して、助けてやろうとでも思っているのか。もう既に、たくさんの異端の者たちの命を奪ってきたこの自分が。
　寝起きの喉に渇きを覚える。水でももらおうと、シュバルツは寝乱れたシャツの襟元を正すと階下へと向かった。途中、なにやら様子がおかしいのに気が付く。階段を降りきって食堂へ出ると、灯りがともされたそこには宿の女将と村人と思しき大人が数人、そして子供たちが集まっていた。酒を飲みに来た、というには雰囲気が妙だった。皆がぴりぴりとした空気をまとい、落ち着かない様子で立っている。
「何事だ？」
「ああ、お客さん…」
　女将が胸の前で両手を握ったり開いたりしながら寄ってくる。今にも泣き出してしまうのではないかと思うほど、その表情は不安げに見えた。
「デイジーが帰ってこないんだよ。もう、こんなに真っ暗なのに」
　デイジーとは、確か女将の娘の名前だったか。ありがとうと言ってシュバルツを見上げた、明るい笑顔を思い出す。
「この子たちと一緒に遊びに行ったのに、デイジーだけ帰ってこないんだ」
　この子たち、と女将が示した子供たちが、次々に口を開く。
「俺たち、森でかくれんぼしてたんだ」
「デイジーだけ最後まで見つからなくて。いくら探しても出てこないから、先に帰ったんじゃないかって思って」
「みんなで名前呼びながら、あちこち探したんだよ。でも全然、返事もしないし…」
　よりによって、今、この時に。夜の森の中、一人行動している少女がいる。すべてのタイミングが悪すぎた。
「すぐに探した方がいい。………危ない、かもしれない」
「そんなっ！」
　女将が悲鳴を上げる。
　周りにいる大人たちが何か言いかけるのを待たずに、シュバルツは走り出した。
　あの時。女将と、事件の話をした時に、忠告しておくべきだったのか。この町に犯人が訪れている可能性があると。しばらくの間、一人で人気のない場所へ行くのは避けた方がいいと。
　だがいくら後悔を重ねても、既に遅い。ここまできてしまったら、シュバルツにできることは自分の心配が杞憂に終わるのを祈ることと、一刻も早く少女を見つけだすことだけだ。
　よく晴れた空に浮かぶ満月が、こうこうと地上を照らしている。しかしその月明かりも鬱蒼とした木々に阻まれ、森の中まではほとんど入ってこない。かろうじて、辺りの風景がわかる程度だ。
　子供たちの遊び場であれば、町からそう離れてはいないだろうと当たりを付け、森の中をひたすら走る。何か、物音はしないか。人の声は。可能な限り遠くまで、意識を張り巡らせる。
　シュバルツの感覚が、微かな音を捉えた。音のした方向へと全速力で向かっていく。木々がまばらになり、開けた場所に出た。平らかな草原を満月が照らし。二つの人影を、はっきりと浮かび上がらせる。その内の一方が、何も言わずその場に崩れ落ちた。
　駆け寄ろうとして、その十歩手前で足を止める。いや、止めざるを得なかった。
　あと一歩の距離。それを踏み越えた瞬間、相手が行動を起こすだろうということをシュバルツは感じた。攻撃か、あるいは逃亡を計るのか。そこまではわからないが、確かにシュバルツは相手の全身が緊張をはらむのを感じたのだ。それはさながら、野生の動物が人間を警戒する時のような。
　仕方なく、距離をとって対峙した相手を観察する。
　どのようにして人形が作られたのかは、老人から執拗なまでに聞かされていた。体を作り、頭を作って。髪は孫の遺髪を混ぜて植え、瞳には良質の石を入れて。
　シュバルツは、それがまぎれもなく人の手で作られた人形だということを知っていた。しかしそれでも、目の前にいる相手は作り物とは思えないほどに人間らしく。この場の状況のすべてが、それがシュバルツの追っている相手だと示しているにも関わらず、人違いでもしているのではないかと思ってしまう。
「ルバイヤードの人形師、ゼノンの作った人形とはあんたのことか」
　シュバルツの問いに、相手がびくりと体を震わせる。
「やっぱり、あんたがテッド人形なんだな」
「…僕は、テッドじゃないよ」
　テッド。
　この名前をシュバルツが口にした瞬間、相手の纏う雰囲気が変わった。
「それは、あの人の孫の名前だ。僕の名前じゃない」
　迷いなく言い切る、その表情は妙に静かで。上から蓋をかぶせてしまったかのように、何の感情も読み取ることができない。
「それじゃあ…」
　シュバルツは慎重に言葉を選んだ。お互いが次にどんな行動に出るにせよ、より自分を保っている方が先手をとることになる。少しでも、相手を揺らがさなければならない。
「それじゃあ、あんたは誰だ？」
「…僕は、ピノッキオだ」
　返ってきた答えは、子供向けの童話に出てくる人形の名前だった。一人の老人によって作り出され、やがて人間の少年になった。
「なりそこないのピノッキオだよ」
　おどけて言う。笑っているはずのその顔はなぜか、泣き出しそうに見えた。
「ピノッキオ。あんたはこんなところで一体何をしているんだ？その子はどうした？」
　目線は人形に置いたままに、先程からぴくりとも動こうとしないもう一方…いや、この距離でははっきりそれとわかる、地面に倒れ伏したデイジーを示してみせる。
　ちらりとデイジーに目をやって、人形が、揺らいだ。
「………わかってるくせに」
　垣間見えた絶望に、一瞬ためらった。
　懐からスローイングダガーを引き抜き、同じ動作で人形に向けて投げる。その心臓部分を狙って放たれた刃はしかし、あっけなく空を切った。シュバルツの攻撃を回避した人形が次の行動に移る前に、一呼吸で間合いをつめる。人形の目の前に到達する時には既に、新たなダガーを握っている。
　手応えがあった。
　そう感じた瞬間には、シュバルツの体は逆に吹き飛ばされていた。受身をとって起き上がり、すぐに人形の姿を探す。人形はシュバルツの視線の先、遥か遠くに立っていた。
　左の脇腹を押さえているが、出血は見られない。浅かったか、と舌打ちをしかけて、相手が人形であることを思い出した。元よりその体には血液など流れていないのだ。
　血の通わぬ体であっても痛覚はあるのか、人形の顔が歪む。微かに震える唇が、言葉をつむぐのがシュバルツの耳に届いた。
「…かない。……こんな、ところで…死ぬわけにはいかないんだ。僕は…まだ死にたくない………」
　よろけるように人形が後退る。そのまま数歩下がると、身をひるがえした。
　後を追おうとして、やめる。これだけの距離があっては、おそらく追いつくことはできないだろう。それにデイジーのことも心配だった。
　人形の気配が完全に消えるのを待って、シュバルツはデイジーの傍らに膝をついた。ぐったりと力の抜けた体を抱き起こす。
　今日の昼に出会った時とはまるで別人のようだった。いきいきと輝いていた瞳は閉ざされ、肌は血の気がなく紙のように白い。生命のあるかなしか。器は同じはずなのに、それだけでこんなにも変わってしまう。デイジーは既に息をしていなかった。
「死にたくない、か…」
　それならば、デイジーだって同じ気持ちだっただろう。まったく予期せぬものであった分、デイジーの方が無念だったかもしれない。
　死にたくないという思い。そんな、自分勝手な理由を振りかざし、他人の命を奪っていく。それではまるで。
「俺と、同じじゃないか」
　あの人形は鏡だ。シュバルツの罪をそのまま映す。自分という存在がいかに汚いものであるか、まざまざと思い知らされる。
　腹の底から笑いがこみあげてくる。
　衝動に任せて笑いながら、シュバルツは泣いた。

　何一つ変わることなく、青い空が広がる。穏やかな風が吹き抜け、鳥のさえずりが聞こえてくる。
　ユタの町では葬儀が行われていた。少女の遺体が納められた棺を取り囲むようにして、葬送の列が町を練り歩く。
　デイジーの死から三日。犯人の可能性があるとして拘束されていたシュバルツの身元は教会によって保証され、この日ようやく解放された。
　もしよければ一緒にデイジーを弔って欲しい、と宿の女将には言われたが、一刻も早く人形を追わなければならないからと丁重に断った。
　半分は真実だが、もう半分は嘘だ。デイジーの死に顔を見るのがシュバルツは恐ろしかった。少し立場が違っていれば、デイジーを殺すのは自分であったかもしれないのだ。
　人形と出会って以来、シュバルツは自分がどんどん弱くなっていくような気がしていた。いや、元々あった弱さに、気が付いただけなのか。それでもシュバルツの中の人形に対する感情は変わらなかった。むしろ、より近くに感じるようになったと言ってもいいだろう。よく似ている。だからこそ、人形もまた苦しんでいるのだということが、手に取るようによくわかるのだ。
　シュバルツは葬送に背を向けた。
　人形を止める。デイジーのためにも、シュバルツ自身のためにも。
「楽しいことなんてほとんどない、くそったれな人生だけどな。それでも…俺も、生きていたいんだ」
　いつか誰かが、シュバルツを狩りにやって来るかもしれない。それだけのことをしているのだから、やむを得ないとも思う。だが、それまでは。
　いくつもの嘆きが耳に届く。追いすがるそれらを振り切って、シュバルツはユタの町を後にした。

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