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夜の闇が広がる。動くものなど何一つ存在しないかのような静寂。 みな息を潜めているだけで、そこには多くの者たちが生きているのだということを ゼノンは既に知っていた。
狩るべき獲物を求めて、ゼノンは歩く。逆に自らが狙われるかもしれないと言う恐れは 不思議となかった。
おかしい…。声には出さず、ゼノンはつぶやいた。何がとはっきり言うことはできないが、 いつもと空気が違うような気がする。根拠のない、予感とでもいうのか。 それも嫌な感じのする予感が、ゼノンの心を落ち着かなくさせる
ふと、数メートル先の路地からオレンジ色の明かりが漏れているのが目に映った。 次いで、人の気配が。避ける間もなく気配の主はゼノンの前に姿を現した。
「そこにいるのは誰だ」
警備隊の制服に身を包み、帯剣した二人組みの男…そのうちの一方が手に持ったカンテラを掲げる。
「怪しい者じゃない。第三地区で、人形作りをしている者だ」
「その人形師のじいさんが、こんな時間に一体何をしているんだ」
「最近、この辺りで人殺しが頻発しているのをまさか知らないわけじゃあるまい」
「………」
「怪しいじいさんだな。向こうで、話を聞かせてもらおうか」
「…ん?おい、ちょっと待て。あんたゼノンじいさんか」
カンテラを持っていない方の男がゼノンの顔をじっと見る。
「知り合いか?」
「知り合いってほどじゃないんだが…。少し前に、子供が馬車にはねられた事故があっただろう」
「お前が事後処理を担当したやつか」
「ああ。そのときに亡くなった、子供の家族だ」
ゼノンが何か言う必要もなく、二人の男たちは勝手に話を進めていく。
そうか、こっちの方角は…。
何かに気付いたようにぐるりと周囲を見回して、訝しげだった男の目が哀れみに変わった。
ルバイヤードの中心部から見て北の方角。ちょうどゼノンが歩いていたこの地区を抜けた先には、 町の共同墓地があった。
男たちの様子から、自分が今どんな目で見られているのかは容易に想像できた。 たった一人の家族であった孫を亡くし、日が暮れるまでその墓前にしがみついている。 そんな、哀れな老人とでも思っているのだろう。
何であれ、ゼノンにとっては都合の良い誤解だった。
あえて口をはさまず、ただ視線をそらしてみせる。否定も肯定もしない、 その態度がより哀れに見えるように。
「じいさん、呼び止めてすまなかったな。お詫びといってはなんだが、家まで送ろう」
男が言う。相棒の言葉に、もう一方の男も頷いた。
「しかし、この辺りは本当に物騒だからな。今日はたまたま俺たちが見つけたから良かったが…」
「あれから…二ヶ月くらい経つのか。気持ちはわかるが、いつまでもこんな調子じゃあ駄目だぞ」
男たちがゼノンを促して歩き出す。
その独りよがりで、無責任な善意にゼノンは仕方なく従った。この場で否を唱えようものなら、 せっかく都合の良い解釈をしてくれたのが台無しになってしまうかもしれない。
大丈夫だ。まだ、明日があるさ。男たちの手を振り切って逃げ出そうとする自分の心に、 ゼノンはそっと言い聞かせた。
ゼノンの期待はあっけなく裏切られた。
次の晩も、その次の晩も、ゼノンの狩りが成功することはなかった。 警備隊に見とがめられることこそなかったものの、彼らの存在は間違いなくゼノンを阻害していた。
少年の“薬”がなくなってから、もう一週間が経とうとしている。少年の命を維持するために、 “薬”は必要なのだと言う。では“薬”を与えなくなったら、少年は一体どうなってしまうのだろうか。
焦りと疲労で気分が悪い。ふとした拍子に、眩暈に襲われることも最近は多かった。
「…出かけてくる」
どんなに調子が悪くとも、日々の生活は変わらず訪れる。人形を作って売らなければ 金は得ることはできないし、パンだって一度食べてしまえばおしまいだ。
何か、日持ちのする食べ物と…人形の服を作る布も足りないな。
必要なものを挙げつつ、どの順番で店を回れば効率が良いかを考える。背後で少年が いってらっしゃいと言うのが聞こえたような気がしたが、振り返る余裕もなくゼノンは扉を閉めた。
今日は、やけに天気が良い。一歩外に出た途端に鮮烈な陽光が目を焼く。 いつもと同じ雑踏がなぜかひどく癇に障った。人ごみに流されるようにして町を歩いていく。 すれ違い損ねた男の肩がぶつかり、足元がふらつく。そしてそのまま、 ゼノンの意識は急速に遠のいていった。
見慣れない天井が広がっている。開け放たれた窓から入る風と、 額に乗っている濡れたタオルが気持ち良い。
「ゼノンさん、気が付いた?」
声と共に現れたのは見知った女だった。生活雑貨を扱う店を営む四十過ぎの女で、名をエリという。 顔が合えば挨拶を交わし、時間があれば立ち話をする。比較的、親しい間柄と言えるだろう。 もっともあの事故があって以来は、会話どころか顔を見た覚えもなかった。
「わたしは…どうしたんだ?」
ゆっくりと上体を起こす。
やけに、すっきりとした気分だった。
「ゼノンさん、うちの店の前で倒れたんだよ」
ゼノンの寝かされているベッドの脇に椅子を持ってきて、エリはそこに座った。
「疲れが溜まってたんだろうって、お医者様が」
ゼノンの額に手を当てる。
「そりゃあもう、ひどい顔色してたんだよ。今はだいぶ良いみたいだけど。…熱も下がったね」
良かったよと、エリが笑う。
その笑顔に、ゼノンはなぜだか涙が出そうになった。慌ててまばたきをする。
「その内こうなるんじゃないかって、ずっと心配してたんだよ。たまに姿を見かけてもゼノンさん、 何かにとり憑かれてるみたいな顔して」
「…すまない」
「いいんだよ。長い付き合いじゃないか」
そうだ、とエリが膝を打つ。
「何か食べるかい?昨日の残り物で悪いけど、スープでも温めてくるよ」
言いながら、こちらの返事を待たずにエリは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
そう言われてみれば、確かに空腹を感じる。狙いすましたようにゼノンの腹が音をたてた。
「丸一日眠ってたんだから、お腹だって空いて当たり前だね」
あははと笑った、エリの言葉が引っかかる。
「…丸一日、眠ってた?」
「ああ、そうだよ。昨日の昼前にうちに運び込んで、それからずっと寝てたんだ」
愕然とした。一日もの間、家を空けてしまったのか。少年を一人置いて、何も告げることもなく。
「すまない、急用を思い出した。今日は失礼するよ。また後日、改めて礼を言いに来るから」
ベッドから降りる。床の上に自分の荷物を見つけ、ゼノンはそれを手に取った。
「礼なんて別にいいんだけどさ。急用って、どうしたんだい?」
「…とにかく、今日のところはもう帰るよ」
エリが相手であっても、事情を話すわけにはいかない。頑なに帰ろうとするゼノンに、 エリはあきらめたようにため息をついた。
「わかったよ。大の男を無理やり引き止めるわけにもいかないしね」
やれやれといった感じで、肩をすくめる。
「その代わり、家でちゃんと養生するんだよ。しっかりと寝て、栄養のあるもの食べて」
大の男をと言いながら、続ける言葉は完全に子供を心配する親のそれと同じだ。 少し強引ともいえる善意が暖かい。
ゼノンは頷き、口元で笑ってみせた。
エリに付き添われて早足に玄関へと向かうが、そこまで来て、なにやら騒がしいのに気が付いた。
「あれ、ゼノンさん、もう帰るの?」
エリの息子のトールが目を丸くする。同じ年頃の少年が三人、トールを囲むようにしている。 騒がしいと思ったのは、彼らの話し声だったようだ。
「本当なんだって…!」
少年たちの一人がトールに食ってかかる。
「俺たち、本当に見たんだよ」
「お前らさぁ…」
トールはやれやれと首を振った。
「ゼノンさんの前でも、同じこと言える?」
少年が言葉に詰まる。三人共がおどおどと、ゼノンを避けるように視線をあちこちにさまよわせた。
「わたしに関係のあることか?」
ただならぬその様子に、何があったのかとゼノンはトールに尋ねる。
「それがさぁ、こいつら、テッドを見たって言うんだ」
一瞬、心臓をつかまれたような気がした。息がつまり、鋭い痛みが体の中を駆け抜ける。
何度もためらう素振りを見せて、ようやく一人の少年が顔を上げた。
「…俺たち、嘘ついてないよ、ゼノンさん」
他の二人を代弁するように、たどたどしくも言葉を重ねる。
「俺たち毎日、朝、あちこち配達に回ってて、いつも一緒に帰ってるんだけど…」
少年によれば今朝、配達を終えてようやく帰途に着いた彼ら三人がゼノンの家の前を通りかかると、 二階のちょうど真ん中の部屋の窓が開いており、そこにテッドが立っていたのだという。
「その時は驚いて、すぐに逃げちゃったんだけど…」
でも、確かに、テッドだったんだ。
少年が嘘をついていないということは、ゼノンが一番よくわかっていた。だからこそ、 よりいっそうの平静を装う。
「その子が嘘をついているのかどうかはわからないが、少なくともわたしは、一度も見たことはないよ」
努めて抑えた声音で、それだけを言う。そしてそのまま、後ろを振り返ることなくゼノンはその場を後にした。
しばらくの間、エリの店から十分に離れるまでは普通の歩調で、やがて速足になり、 とうとうゼノンは周りの目も気にせず走り出した。そうでもしないと、何か意味のわからないことを 叫んでしまいそうだった。
家にはすぐに到着した。玄関の鍵を開けるのももどかしく、中に転がり込む。居間を通り抜け、 もう一つ鍵のかかった扉を開けて階上の、少年がいるだろう部屋を目指す。 ゼノンが階段を昇りきるのと、真ん中の部屋から少年が顔を出すのは同時だった。 ぱっと表情を明るくした少年が口を開くのを待たず、ゼノンは勢いをそのままに部屋へと押し入った。
「窓を開けたのか」
ゼノンの剣幕に、少年が何か言いかけた言葉を飲み込む。
状況を理解できていない様子の少年に、ゼノンはもう一度繰り返した。
「今日の朝、窓を開けたのか」
返事を待たずとも、少年の顔が是と言っているのがわかった。
「あれほど駄目だといっただろう」
「………おじいさんが、いつまでたっても帰ってこないから、どうしたのかと思って…」
「だから約束を破ったのか」
苛立ちを吐き出し、少年にぶつける。
「…挙句に、姿まで見られて」
それまでただ戸惑い、怯える風だった少年の様子が、ふと変わった。
「ねえ、おじいさん」
異様な雰囲気に、ゼノンの方が逆に圧倒されてしまう。
どこまでも深く、静かで、澄んだ瞳。そういえば一番質の良いスモーキークォーツを 入れたんだったと、そんな場違いなことをなぜか思い出した。
「おじいさんは僕に、外は危ないって言ったよね。僕は病気で、外は僕にとって毒になるもの ばかりだって。だから、家に閉じこもらないといけないんだって」
確かにゼノンはそう言った。少年をこの家に閉じ込めて、他の誰とも会わせないために、 そうやって嘘をついた。
「でも、今おじいさんは、僕が外の空気に触れたことじゃなくて、人に見られたことに対して怒ってる」
何一つ言い返すことはできなかった。少年の言ったことが、まぎれもない真実であるが故に。
「僕のこと、テッドって呼んだんだ」
ぽつりと少年が言う。
「僕のことを、テッドって…。ねえ、テッドって誰?テッドって僕のこと?僕は、誰…?」
「お前は…わたしの孫で…」
「僕が、おじいさんの孫だって言うのなら、お願い…僕の名前を呼んで」
言われて初めて、ゼノンは今まで一度も少年の名前を呼んだことがなかったという事実に気が付いた。
テッドが帰ってきたと、そう思っていたはずだった。目の前にいる少年はゼノンにとって、 自分自身の命よりも大切な、たった一人の孫のはずだった。それなのに、なぜだろう。 少年が目を開いたあの瞬間からおよそ二ヶ月、ゼノンは一度も少年をテッドと呼ばなかった。 そして今、テッドと同じ顔で、同じ声で、目の前にいる少年を、なぜだろう、 どうしてもテッドと呼ぶことができないのだ。
口を開き、何か言おうと試みてはまた閉じる。そんなことを何度も繰り返す、 ゼノンの姿を少年のスモーキークォーツの瞳がじっと見つめる。
「わたしは…」
張り詰めた空気に耐えられず、なんとか口に出した言葉はしかし、後に続かない。 ゼノンは少年に向かって手を伸ばし、その頬に触れた。
そして、息を呑む。少年の頬のその感触。冷たく、無機質で、まるで人形のような。
その瞬間、ゼノンはわかったような気がした。“薬”を飲まなくなった少年がどうなるのか。 目の前にあるものが、答えなのだろう。不思議な力によって与えられたかりそめの命。 それは少しずつ減っていき、やがて少年は人形に戻る。
段々と、ゼノンは恐ろしくなってきた。この少年は、一体何なのだろうか。
ドンドンドン。
階下から荒々しく扉を叩く音がした。
「じいさん、いるのか!?」
次いで、男の声が。
はっと我に返る。少年にここで待っているんだ、と言い捨てて、ゼノンは玄関へと向かった。
ゼノンがたどり着くまでの間にも、扉はうるさく音をたてている。
「わたしならいる。誰だ?」
そこにいたのは、見たことのある男たちだった。警備隊の制服に、腰に吊るされた剣。 いつだったか、ゼノンが夜の町で会った二人組みだ。
「…何の用だ?」
「目撃証言が出た」
一人が重々しく告げる。
「二週間前に浮浪児が殺された事件で、じいさん、あんたを見たって奴がいるんだ」
目の前が、真っ暗になったような気がした。
もう終わりだ。嫌疑をかけられた以上、彼らはゼノン自身だけではなく、この家の中まで 取調べをするだろう。鍵をかけ、封印していた扉を破り、そして少年を発見するに違いない。 もう言い逃れすることはできないのだ。
ゼノンの中でくすぶっていた恐れや、不安や、疑念といったものたちが急速に膨らんでいく。
今まで自分は、何をしてきたのか。何のために、多くの人間をこの手にかけてきたのか。 何が、ゼノンをこのような恐ろしい行為に駆り立てたのか。
「…わたしは、騙されたんだ」
そう、すべては、あの奇妙な少年のせいだ。
「そうだ、わたしは騙されたんだ。あの少年に…悪魔に!」
なぜこんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう。甘い言葉で人間を惑わし、堕する。 そのような存在こそが、悪魔と呼ばれるのではないか。
ゼノンはもう自分を止めることができなかった。突然の豹変に、呆気にとられたようにただ ゼノンを見つめる男たちに向かってまくし立てる。
「テッドの人形を作れと言われたんだ。そうすれば、テッドを返してやると」
しかしあれは、テッドではなかった。ずっとテッドなのだと思い込もうとしていた。 テッドの死をなかったことにしようとしていた。しかし、さっき手を触れた瞬間、 ゼノンはわかってしまったのだ。
「あれはテッドなんかじゃない。わたしが作った、テッドと同じ顔をして、同じように笑って、 同じように喋る………化け物だ」
両手を広げて、顔を覆う。
「わたしは、何てことをしてしまったんだ…」
後悔が押し寄せてくる。しかしいくら後悔を重ねても、もう遅いのだ。すでにゼノンは、 たくさんの罪を犯してしまった。
自分が背負うものの重さに耐えかねるように、ゼノンの背が丸くなる。
丸めた背中に、衝撃が走った。次いで、体中のすべての熱が一点に集まるような感覚が。 痛みはその後にやってきた。
焼け付く痛みに仰け反りながら、後ろを振り返る。
そこにいたのは、ゼノンが自らの手で作り上げた、一体の人形だった。 しっかりと握られた大振りのナイフは、ゼノンがこれまで幾人もの命を奪ってきたものだ。 工房に隠しておいたはずなのに、どうやって見つけたのだろうか。
足に力が入らない。ゼノンはその場に崩れ落ちた。
人形の唇が何事かつぶやくのが見えたが、何を言ったのかはわからなかった。
人形が、ゼノンから二人の男たちへと視線を転じる。茫然と立ちすくんでいた二人が 我に帰った瞬間には時既に遅く、人形は男たちを突き飛ばすようにして外へ飛び出していった。
「テッド…わたしが間違っていたよ。人形が、お前の代わりになんて、なれるはずがないのに」
いくつもの怒号と悲鳴が聞こえる。
「すまなかった、テッド…」
冷たい床に倒れ伏したまま、ゼノンはゆっくりと瞼を閉じた。
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