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 ガチャリと、鍵の開く音。扉が開く微かな音が続き、そして。
「ただいま」
 部屋の主である梓が帰還を告げる。
「おかえり、梓ちゃん」
「ただいま早夜。将生も、今日はありがとね」
「いや、気にしないでくれ。俺は楽しんで留守番させてもらったから」
「…そういえば、なんだかいい匂いがするけど」
 含みのある将生の笑顔に首を傾げて、梓がちらりとキッチンの方を見る。
「ああ。それはだな…」
 言いかけて将生が、俺にバトンを放り投げる。危うく取り落としそうになったそれを何とかキャッチして、後を続けた。
「料理を作ってみた」
 明瞭だが、いささか簡潔すぎるかもしれない説明。
 案の定、状況を理解できなかったらしい梓の首が更に傾く。
「ジャンさんが、梓ちゃんにって料理したの。すごいの。美味しいのよ」
「ジャンが…?」
 梓に頷いてみせる。
 早夜と将生に評判がよかったスープを今度はもう少し手間暇をかけて作ったものを一品と、あとは簡単なデザートが一品。 どちらも、味見役の二人からは合格点をもらっている。
「たまには、いつもと違う味っていうのもいいだろ」
「…それで作ったの?」
 いまいち釈然としない様子の梓。じっと見つめられて、俺は目をそらした。自分の髪の毛をぐしゃぐしゃっとかきまぜて、 目線は合わせないままに。
「…たまには、作りたての料理も食べさせてやりたかったんだ。いつもハウスキーパーの作り置きばっかり食べてるんだろ?」
「………」
 何のコメントも返ってこないことに不安を覚えて、ちらりと梓を見る。ひどく驚いた表情で立ち尽くしていた梓は、 俺と目が合うと、笑った。
「…っありがとう、ジャン!」
 大げさなんじゃないかと思うほどの喜びよう。
「お腹空いてたの。ちょっと早いけど、晩御飯にしよう」
 着替えてくるねと言いながら既に自室へと足を向けているその背中に、将生が声をかける。
「それじゃあ、俺たちは帰るよ」
「帰るの?二人とも?」
「ああ。今日は随分と長居させてもらったし、返還術の手がかりもまた探さないといけないしな」
「またメールするね、梓ちゃん」
 ばいばいと早夜が手を振る。
 それに片手を上げて返して、俺は二人を見送った。



「美味しい…!」
 スープを一つ口に運んで、梓はそう歓声を上げた。次いでもう一口、二口とスプーンを動かす。
「こんなに美味しいご飯食べるの、すごい久しぶり」
「そうか。ならよかった」
 あまりの反応の良さに若干驚きつつも、作り手としてはやはり嬉しくなる。ついにやりとしてしまいそうになる口元を、 梓に気づかれないようそっと隠した。
「本当にどれくらいぶりかな、こんな温かいの…」
 デザートまで綺麗に平らげて、ごちそうさまと両手を合わせる。
 そしてしみじみといった風につぶやいた梓は、とても無防備に見えた。
「…ねぇジャン」
「ぅん?」
「今日、私がどこに行ったのか訊かないの?」
 料理を褒めるのとまったく同じトーンでさらりと放たれた言葉。突然のその問いかけに一瞬、頭が真っ白になる。 なぜそんなことを訊くのか、梓の意図が読めない。
「…実を言うと、もう将生から聞いた。実家に帰ってたんだって?」
「うん。昨日、話があるからって父親に呼び出されて」
 家族の一員を示すはずの父親という単語が、ひどく他人行儀に響く。
「すっごく嫌なことを言われたの。それで、ずっと嫌な気分だったんだけど、ご飯食べたら少し元気出た」
 ぐいっと手元のカップの中身を飲み干す梓。
「お茶、お代わり持ってくるよ」
「あ、ああ…」
 俺の分のカップも持って、キッチンへと消えていく。すぐに梓は、薄く湯気のたつカップ二つを手に戻ってきた。
「どうぞ」
 差し出された一つを、礼を言って受け取る。
 少しの間、二人の間に沈黙が流れ、そして。
「ジャン」
 呼ばれて、視線を上げると思いのほか真剣な梓の眼差しとぶつかった。
「今日、これからジャンの時間を、少しでいいから私にちょうだい」
「…そういう意味だ?」
「話を聞いて欲しいの。私の」
 一息に言ってから、急に不安げな様子で。
「駄目かな。鬱陶しい?」
「いや…」
 俺は大きく頭を振った。
「自分のこと話したくないんだろうと思ってたから、驚いた」
「話さないよ、いつもは。人に話して楽しいものじゃないし。でも、ジャンには聞いて欲しいと思ったの」
 なぜなのかを、梓は口にしなかった。昨日までの俺は梓にとって、間違いなくその他大勢の『人』の一員だったはずだ。 それがなぜ今、話してくれる気になったのか。
 もう一度、今度は小さく頭を振る。
 上がったり下がったり、右に行ったかと思ったら左に行ったり。人の心なんて、その時の状況や気分次第でいくらでも変わるものだ。 ふと、自分の話を聞いてもらいたくなる時だってあるだろう。大事なのは、今この瞬間の梓の気持ちだ。
「聞くよ。聞かせてくれ。前にも言っただろ?根詰めたところで、結果が出るような状況でもないんだ」
「うん。………ありがとう、ジャン」
 そっと笑う梓を見て、雲が切れて太陽が顔を出すように、胸の奥のもやもやとした何かが晴れていくような、そんな気がした。



「私の両親、政略結婚だったの」
 出だしからインパクトがあった。
「両家の発展のためってことで結婚した…というより、させられた、かな。だけど父には、母とは別に好きな人がいた」
 淡々と、物語を語って聞かせるような口振りで、梓が続ける。
「もともと本人同士が望んだ結婚じゃなかったから、すごく仲が悪くてね。特に父は、母のことを嫌ってた。 母がいたから好きな人と結婚できなかった、とか思ってたんでしょうね」
 格好悪い、とここにはいない男に向かって罵倒する。
「父は私のことも嫌ってた。でも母は、私には優しかったの。だから父がほとんど家に帰ってこなくなって、 母と二人でもつらくなかった。むしろ清々したくらい。………でも、母が死んだ」
「………」
「しばらくして、父は再婚したわ。相手は、想像がつくでしょ?」
 その問いに、無言のまま頷く。
「特に家柄がいいわけでもない普通の女の人だったけど、その頃には父が家で一番力があったから、結婚に反対する人は 誰一人いなかった。母の実家も、当時は父から色々と援助してもらう立場だったから、表立って異を唱えることはなかったの」
 梓の話を聞くうちに、俺は余計に梓のことがわからなくなってきた。梓がどんな環境で生まれ、育ってきたのか。 状況を理解することはできても、それが一体どういった感情を人間にもたらすものなのか、想像ができない。
「まぁ、そこまでは母が死んだ時点で予想できた展開だったんだけど………流石に、 二歳しか年の違わない弟が現れたときには驚いたわ」
「はぁっ!?」
 思わず声がひっくり返ってしまった。
「本当、びっくりよね」
 叫んだ形のまま固まっている俺を見て、くすりと梓が笑う。
「…でも、それだって十分に予想できたはずなのよね。家に帰ってこないで、父がどこで何をしていたのか、なんて。 ………多分私、どこかでまだ父のこと、信じてたんだと思う。馬鹿みたい」
 そう言って、自らを嘲るように。
 なぜだろう。俺にはわからなかった。なぜ梓がこんな顔をしなければいけないのか。そんな必要など、 どこにもないように思えるのに。
「好きな相手と結婚して、跡取り息子もいて。理想的な家庭の中に、私なんか邪魔なだけ」
「そう、言われたのか?父親から?」
「直接言われた訳じゃないけど、考えてることなんて大体想像がつくわよ。目は口ほどに物を言う、ってね」
「そんなこと…」
「でもそのおかげで私もこうして好き勝手していられるんだから、お互い様」
 といっても、と付け加えてから、梓がすっかり湯気のたたなくなった紅茶を一口含む。
 俺もカップを手に取ると、がぶりと中身を飲み込んだ。気付かない間に随分と喉が渇いていたらしい。冷めてしまった、 その温度が逆に心地良い。
「あくまで、あの人の手のひらの上の自由でしかないんだけどね」
 テーブルの上で、カップを両手に握り込んだまま。そんな梓のちょっとした動作が、何かに縋ろうとしているような、 少しでも温もりを分けてもらおうとしているような、そんな風に見えてしまうのは俺の気のせいだろうか。
「いつか言われるだろうなって思ってたけど。それでも、もう少し先だろうと思ってたけど…」
 ぎゅっと。握る梓の指先に、力がこもるのがわかる。
「今日、父親に呼び出されてね。………結婚しろ、って言われた」
「………それって、政略結婚?」
「もちろん。見ず知らずの当年二十九歳」
「二十九歳…」
 それは、ロリコンというやつではないのだろうか。
「まぁ、しばらくの間は婚約者ってことになるんだろうけど」
 二十九歳が婚約者。それだって、十分に問題だ。
「何だってそんなこと…。政略結婚がどんなものか、身をもってわかってるだろうに」
「養ってやってる代わりに結婚でもして恩返ししろってことでしょ。私が嫁に行けば、ちょうと厄介払いもできるし」
 そんな親子関係、あんまりだ。
 そう言うと、梓はもう慣れたと笑ってみせた。
「………俺、小さいな」
 ぽつりと、思わず漏れ出たつぶやきを耳聡く梓が拾う。
「どうしたの、ジャン?」
「いや、さ。世の中には大勢の人がいて、みんなそれぞれ悩みとか事情があって。そんな当たり前のこと、 今までずっと気付かない振りしてさ、俺だけが不幸みたいな顔して。本当に俺って小さい。……情けない」
 他人と不幸比べをする気はないが、俺が世界で一番不幸だ、なんて考えは、世間知らずの思い込みでしかない。 それに俺は、不幸ではなかった。ただ不運だっただけだ。
「仕方ないよ。自分がつらいときに、そんな風に考えるのって難しいもの」
 梓がわずかにテーブルの上に身を乗り出す。少しだけ、梓との距離が近くなった。
「それに不幸じゃないからって、その人が幸せとは限らないわ。だから情けなくなんかない。悩んでもいいの」
 その瞬間の感情を、一体何と表現したらいいのだろう。
 ほっとした。俺という人間を認めてもらったような、受け入れてもらったような。
「私は、ジャンのことが好きだから」
「………ありがとう………」
 梓にとっては、何てことのない言葉だったのかもしれない。
 それでも俺は、俺の心は、梓に救われたのだった。






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