俺たちが梓の家に戻る頃には、既に日は傾き空は薄暗くなっていた。アルバイトの時間自体はもう少し早く終了していたのだが、 万が一にもハウスキーパーと鉢合わせすることのないよう、今まで外で時間をつぶしていたのだ。
「ありがと、ジャン。今日は付き合ってくれて」
「俺の方こそだ。こんなこと言ってる場合じゃないんだろうが、楽しかった」
 本当に、自分の置かれている状況を忘れかけた。
「いい気分転換になった」
 現実に戻った瞬間、更なる自己嫌悪に陥りそうになったが。
 他愛のない会話を交わしていると、不意に梓の携帯電話が鳴った。軽快なメロディを響かせるそれに目を向けた梓の表情が瞬間、 固まる。
「…ごめん、ちょっと電話出てくる」
 ひったくるように携帯電話を手に取り、リビングから出ていく。そしてすぐに戻ってきた。
「ごめんジャン。明日、用事が入っちゃった」
「今の電話か?」
「うん。………ごめんね」
 そう言って謝る梓の方が、よっぽど落ち込んで見える。
 俺としては謝罪されるいわれもないくらい、非難する気など更々なかったので、気にするなという風に首を振ってみせた。
「明日はハウスキーパーさん来ないから、ここにいて大丈夫。将生と早夜には連絡して、こっち来てくれるように お願いしておくから」
 ああわかったと返事をしながら、一緒に来ないかと、今日はそう誘われなかったことだけがほんの一瞬、 俺の心に引っかかった。



 連れ立ってやってきた将生と早夜を出迎えて、三人で梓を見送る。残った俺たちは例によって現状報告を交わしたが、結局、 お互いたいした進展のないことを確認するに留まった。
「………」
 当事者の俺よりもがっくりとうなだれて、早夜がため息をつく。しかしすぐに顔を上げると、握りこぶしを振りかざさんばかりの 勢いで宣言した。
「私、もっと頑張りますね!」
「…あ、ああ。どうも…」
 張り切る早夜とそれをなだめる将生を眺めながら、俺は例の日記を手に取った。術書の方は既に一通り目を通し終えたが、 特に収穫と呼べるものがなかったのは前述の通りで。とりあえず現状、手がかりらしい手がかりはこの日記を残すのみとなった訳だ。 『好きにくつろいでて』と梓が言い残した言葉に甘えて、遠慮なく茶や茶菓子を頂きながら日記を読み進める。術書が終始、 整然と記されていたのに対して今呼んでいる日記の方はところどころで筆跡が乱れていたり、突然メモ書きのような単語の羅列だけの 頁があったりと様々な様相をしている。他人が読むことを想定して書かれたものでないのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、 非常に読みにくいことこの上ない。
 そのまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
「なんだ、もうこんな時間か」
 ソファの上に仰け反りのびをした将生が、その態勢のまま時計を見上げてひとりごちる。
「二人とも、腹減らないか?」
 つられるように時計を見ると、そろそろ二時を迎えようとするところだった。
「俺は腹が減ったんだが。そろそろ昼飯にしないか?」
「確かに、言われてみればお腹空いたかも」
「ジャンは?」
 俺も特に異論はなかったので、是の意味を込めて頷き返す。
 それを受けて将生は、よし、と大仰な動作で立ち上がるとテーブルの端に置いていた白い袋をあさり始めた。
「ここに来るときに色々と買ってきたんだ。コンビニので悪いけどな」
「菓子パンとお菓子と…デザートも冷やしてあるの?スープとか、サラダとかは?」
「ない」
「………将生ちゃんに任せた私が間違ってたわ」
 あっさり言い切った将生を早夜がにらみ、軽くため息をつく。
「たまにはいいだろ」
「たまにならね。将生ちゃんに買いだし頼むと、いつもこうじゃない。いくら将生ちゃんが甘いもの好きだからってやりすぎなのよ」
「…スープくらい、作ればいいんじゃないのか?」
 不毛な口論が始まりそうな雰囲気に、俺は慌てて口をはさんだ。痴話喧嘩に介入するのは嫌だったが、始まってしまったそれを 見ていなければならないのはもっと嫌だ。そんな思いから深く考えずにした発言だったが、二人はぴたりと口をつぐむと、 示し合わせたようにそろって俺に目を向けた。
「そういえばジャン、実家が食堂なんだよな。料理できるのか?」
「…まぁ、一応」
 昨日、相馬に色々と教わったので基本の食材や味付けは覚えた。簡単な料理であれば、一応と言える程度には作れる、はずだ。
「よしわかった。それじゃあ行こう」
「は?………行くってどこに」
「もちろんキッチンに、だ。そこまで言われたらお言葉に甘えて、ご馳走にならないとな」
 そこまで何かを言ったつもりはなかったのだが、将生の中では俺が料理をするということが既に確定事項になっているらしい。 ちらりと早夜を見ると、こちらも何やら期待するような眼差しで俺を見ていた。
「………」
 将生一人が相手でも分が悪いのに、二対一では勝てるはずもなく。観念して、俺はソファから重い腰を上げた。



「へぇ…」
「美味しーい」
 白い湯気をたてるカップに口をつけて、感心したように将生が声を上げる。すごーい、美味しーい、と間延びした感想を早夜が 繰り返している。
 俺も二人に倣って一口すすり、ほっと息を吐き出した。
 大丈夫だろうと思ってはいたが、実際、こうして無事にまともなものを作れたことに安心する。 料理人見習いのささやかなプライドだ。
「料理もできる魔法使いだなんて、ジャンさんって本当にすごい」
 若干ピントがずれてはいるが、素直な賛辞。こちらの世界の人間はみんなこうなのだろうか。小さなことを大げさに褒める。
「…作りたては三割増に美味く感じるからな」
 褒められ慣れていないせいでどう反応したらいいのかわからず、ついそんな言葉を返してしまった。感じが悪かっただろうかと 少し心配になったが、特に気にした様子は見えなかったのでほっとする。
 将生が買ってきた、中にカスタードクリームを入れて更に上から白く砂糖でコーティングしてある甘いパンをかじりながら、 ふと俺はある疑問を口にした。
「今日、梓はどこに行ったんだろうな」
 少なくともアルバイト先と違い、俺が一緒でない方がいいところだというのは確かだ。昨夜の、電話を受けた後の梓の様子が やはり心に引っかかっていた。
「実家に行くって言ってたぞ。父親にいきなり呼び出されたとかで…聞いてなかったのか?」
「ああ…」
 意外そうに、将生に逆に問い返される。
 その問いに頷いてみせはしたが、半ば心ここにあらずな状態だった。
 前に一度だけ、梓の家族の話をしたときのことを思い出す。親に頼りたくないと、親と仲がよくないのだと言った梓と、 昨夜の梓が重なる。
「どうして、家族に会いに行くのにあんな顔をしないといけないんだろうな」
 何らかの事情があるのだと、俺が知っているのはそんな役立たずな事実だけだ。
「私たちが、ジャンさんにそれを教えるのは簡単だけど…」
 目を伏せるようにゆっくりと瞬きをして、それから早夜はまっすぐに俺を見た。揺るぎのない視線。
「梓ちゃんが話さないでいることを私たちが話しちゃうのは、違うと思うから。だから話せないです。ごめんなさい、ジャンさん」
「…まぁ、そっちの方が正論だろうな」
 もとより、この二人から無理矢理に聞き出そうなんてつもりはなかった。ただ純粋に疑問を口にした、それだけなのだ。
 そもそも俺と梓は、ほんの三日前に初めて出会ったばかりの関係に過ぎない。赤の他人と言うほど遠くはないが、 友人と言うほど近い間柄ですらないのだ。個人的な事情など知らなくて当たり前だ。ただ少し、胸に何かつかえているような、 もやもやと気持ち悪い感じがするのは、きっと梓がこれまで会ったどの人間よりもよくわからない奴だからだろう。 理解できないから、気になる。気になるから気持ちが悪い。
「あんたたちは、梓と仲がいいんだな」
「ジャンよりは付き合いが長いってだけさ」
「家のこととか、梓ちゃんが話してくれる前からなんとなく噂で聞いてたしね」
「学校には噂話が好きな連中がわんさといるからな。聞こうとしなくても、色々と耳に入ってくる」
 自分たちだって最初から梓と仲がよかった訳ではないのだと、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「ジャンさんと梓ちゃん、もっとずっと仲良くなれます、きっと。だって梓ちゃんが願って、ジャンさんが来てくれて。 これってすごい奇跡だと思うから」
 早夜が言った通り、俺が今こうしてここにいることは、それこそ奇跡のような確率によるものだろう。しかし早夜の口ぶりだと、 まるで俺と梓が運命の人同士だとでも言われているようで。
「要は、あんまり気にするなってことだ」
 反論しようと口を開きかけた俺の動きを制するようなタイミングで将生が口をはさむ。目が合うと、 将生は微かに首を振ってみせた。
「………」
 音になる前の言葉をため息に変えて吐き出す。下手に反論する方が面倒臭いことになりそうだと気が付いたのと、 あえて早夜の変な勘違いを正さなくとも、たいした実害はないだろうと判断したのとが半分ずつ。それで、まぁいいかとあきらめる。
「しかし、本当にジャンは料理がうまいな。他にも何か作れるのか?」
「そうだな…使える材料が俺の世界のものとは違うから、なんとも言えないんだが。変に手の込んだものを作ろうと思わなければ、 ある程度は何とかなるんじゃないか、多分」
 結局是なのか否なのかよくわからない答えを返しつつ、さっき見た冷蔵庫の中身で何が作れそうか、 頭が勝手にレシピをあさり始める。いくつか心当たりが見つかったところで、なぜだろう。唐突にこの三日間、 梓と囲んだ食卓を思い出した。
「…梓も、食べるだろうか?俺が料理を作ったら」
 言ってから、自分でも驚いた。
 日々の必要な食事はすべて、ハウスキーパーが作ってくれている。今日とて例外でないことは、さっき厨房に入ったときに 自分自身の目で見て確認していた。主菜が一品と、副菜が何品か。不慣れな見習いの俺なんかが作るものよりもずっと、 きちんとした料理が並んでいた。
「いや…ほら、作りたては三割増に美味く感じるから……」
 作り置きのご馳走よりも作りたてのまかないを、食べてみて欲しいと思ったのだ。なぜそんなことを思ったのか、 なんてことは訊かないで欲しい。ただ思ったから言っただけで、理由なんて俺にだってよくわからないのだ。
「梓ちゃん、すごく喜ぶと思う」
 きらきらと輝く早夜の視線が突き刺さる。
 どうやら俺の発言はうっかり早夜の乙女回路のスイッチをオンにしてしまったようだったが、そんなこと、 気が付いたときには既に遅しだった。






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