薄暗がりの中で古びた紙の頁をめくる。印刷ではなく手書きで綴られた本の、少し癖のある字体をじっくりと、 しかし流れるような速さで読み進めていく。詠唱句においては言葉そのものでなく、その配置と一連の流れが重要な意味を 持つことが多い。一文字たりとも読み飛ばすことはできないが、一言一言で立ち止まっていては術式を理解することができないのだ。 だからこそ、術というのは難しい。
 召喚の術式の記された本を、俺は別れ際に早夜から借り受けていた。返還術のことは書かれていなかったと早夜は言ったが、 気が付かなかっただけという可能性もある。召喚術のようにわざわざ章立てされた、誰にでもわかりやすい形ではなく、 雑多な文章の中に隠されて術式が記載されているかもしれない。
「ま、それを俺が見つけられるって保証もないんだけどな」
 身も蓋もないことを一人ごちて、本を閉じる。
 梓はとっくに寝室へと引き上げて、リビングには俺一人だ。俺はすぐそこのテーブルに本を置くと窓辺へと歩いた。 薄手のカーテンの隙間から、窓の外の景色を眺める。
 ここは自分の知る世界ではないのだという実感が湧き上がってくる。俺の知る限り、夜というのはこんなに明るいものではない。 夜を本職とする店や繁華街は俺の住んでいた町にもあったが、こんな風にどこもかしこもきらびやかな光を放ってはいなかった。
 俺が突然いなくなって、向こうはどうなっているのだろうか。術が行われれば痕跡が残る。召喚術の対象となってしまったことは 調べればすぐにわかるが、騒ぎになってはいないだろうか。
「………」
 考えても埒があかない。
 幸い、召喚術に関する知識は多少なりと持っている。やれることがあるだけ幸運だろう。
 後ろ向きになりそうな思考回路を断ち切るようにカーテンを閉める。そして俺は、梓に借りた毛布にくるまり眠りについた。



「当座の問題として」
 一晩明けて、朝。朝食を終えて、これからどうするかを話し合う場面でおもむろに梓が切り出した。
「ジャンの着替え、調達しないとね」
「あー…」
 確かに問題だ。
 昨夜はそのまま眠ってしまったが、いつ帰れるか確かなことの言えない現状、着替えの調達は必須事項だろう。
「将生に借りるか、買うか…。どっちにしろ、将生がいないと駄目よね」
「………非常に言いにくいんだが、今ちょっと手持ちの金がだな…」
 もし持ち金があったとしても、向こうとこちらとでは使用している通貨が異なっているだろうからどのみち役には立たなかったの だろうが、それでも、本当に自分の身一つしかないことが悔やまれる。せめて装飾品でもつけていたら、換金できたかもしれないのに。
「お金の心配はしないでいいよ。ジャンに迷惑かけてるのは私たちの責任なんだから、それくらいさせて。と言っても、 あんまり高いのは買えないけど」
「…悪い」
「謝らないでよ。ジャンに謝られたら、私たちもまたジャンに謝らなきゃいけなくなっちゃう」
 お互いに延々と謝罪し合うなんて面倒くさいじゃない、と冗談めかして梓が笑う。
 不思議なもので、昨日はなんとなく無礼に感じた梓のこうした言動が、今ではほとんど気にならなくなっていた。無遠慮に見えて、 それだけではない。少なくとも嫌な奴でないことは確かで。ただ、よくわからない奴だと思う。
 梓の連絡を受けて、将生はすぐにやってきた。
「ジャンの着替えのこと、俺も昨日の夜に気が付いて、朝一で持って来られるように色々と準備しておいたんだ」
 大きな鞄の中から次々と服を取り出す。
 結局、将生からはラフな感じのシャツや上着など、一通りの着替えを借り受けた。ズボンはいささか裾が余ったが、 折れば何とかなりそうだったので、こちらも借りることにした。こうして他人の服を着てみると、改めて自分のサイズを 思い知らされるようで少し悲しい。いや、俺が小さいのではなく将生がでかいんだと自分に言い聞かせてみる。
「他の細かいものは買った方がいいだろうな」
「流石に下着までは共有できないよね、やっぱり」
 また謝罪の言葉が出てきそうなところをぐっと堪えて、代わりに謝辞を口にする。
「助かる。ありがとうな」
 すると将生は虚を突かれたような顔をして、それから梓と顔を見合わせて笑った。
「ジャンは良い奴だな。礼を言いたいのは、俺の方だ」
「…何だそれ?」
 なぜ将生に礼を言われるのか。心当たりがまったくない。
「こんなことになったのは全部俺たちが原因なのに、責めようとしないだろ。早夜が謝ったときだって怒らなかった」
「それは…反省してるのがわかるのに、いつまでも怒ったり責めたりしても仕方ないだろ」
「そういうところが良い奴なんだ。……早夜のこと、許してくれてありがとう」
 真面目な顔で頭を下げられてしまった。
 こんな改まって礼を言われるなんて経験はそうないので、どう反応したらいいのかわからなくなる。
「さて二人とも。堅苦しいのはそれくらいにして、早く出かけるわよ。早夜のところにも様子を見に行きたいし、 今日は忙しいからね」
 まごつく俺をフォローするかのような丁度いいタイミングで、梓が俺と将生との間に割って入ってきた。さぁさぁ、と 急き立てながら背中を押される。梓の勢いに流されたふりをして、促されるまま、俺はその場所を後にした。



 梓と将生に連れられて訪れた衣料品店で必要なものを買いそろえ、早夜の家へと移動する。それまでの賑々しい雰囲気から一転した、 閑静な空気の中でどん、と重厚な門構えが目の前に立ちふさがっている。この感じは、俺の世界でも覚えがあった。 俺が住んでいた町にもあった、いわゆるよっぽどな金持ちの屋敷、というやつだ。
「…梓といい早夜といい、この世界の人間は金持ちばっかりなのか?」
「この世界の人間が、というより俺たちの学校の生徒がって言った方が正しいな。金持ち学校なんだ、あそこは。で、 その中でも梓と早夜は別格。俺の家はもっと普通だぞ」
「そんなこと言ってると普通に怒られるわよ。将生の家だって十分大きいじゃない」
「馬鹿言え。うちはこんな、迷子になりそうなほど広くない」
「………もういい。わかった」
 聞いているだけで脱力してしまう。とにかく、魔術研究同好会所属の三人組が裕福なのだということはわかった。
 従兄弟である将生にとっては勝手知ったる他人の家なのか、早夜がいると教えてもらった場所へと案内なしにずかずかと進んでいく。 しかしながら、広い。一人にされたら本当に迷子になってしまいそうだ。もういくつ目の角を曲がったのかもよくわからなくなってきた 頃、ようやく俺たちは目的地に到着したらしい。長い廊下の行き止まりに現れた扉をノックして、開ける。
「早夜、いるのか?」
「あ、将生ちゃん。みんなも、おはよう」
 奥の方からひょこりと早夜が顔を出す。
「おはようって言っても、もう昼過ぎだけどな」
「えっ、もうそんな時間?」
 言われて、驚いたように早夜が時計を見る。窓のないこの部屋では、確かに時間の経過がわかりにくそうだ。
「朝からずっとここにいるんだって?少しは休憩したらどうだ」
「でも…」
 ちらりと、早夜が俺を見る。
「ごめんなさいジャンさん。返還術、まだ見つかってないんです」
「あぁ……まあ、気にするな、って俺が言うのもおかしいが、そんなに無理はするなよ。ちゃんと探してくれてるっていうのは 見ればわかる。差し当たり、衣食住の確保はできてるから死ぬことはないしな」
 最後の部分がかなり本音だ。もしも路頭に迷うようなことになっていたら、流石に途方に暮れるか怒りに任せて当たり散らすか していただろう。
 やっぱり良い奴だ、とでも言いたげな将生の視線をちくちくと背中に感じつつ、四人でまた移動する。用意してもらった 飲み物と軽食とを頂きながら、現状の再確認と今後の作戦会議をすることにした。
「昨日からずっと探してるんだけど、やっぱり召喚とか、そういう関係の本はあれ一冊しかないみたい」
「その本は?」
「…日記、みたいだけど」
 ほとんど黒に近い、焦げた茶色の革張りの装丁をした本。ぱらりと中を見た梓が首を傾げる。
「うん、そうなんだけど…字が、似てるかなって思ったの。あの本と」
 昨日借りた本を取り出して、日記の隣に並べて置く。やや右上がりの癖字。確かに似ている。
「同じ人間が書いたってことか?」
「うん、多分」
「…これも、借りていっていいか?」
「はい。元々、ジャンさんに渡そうと思っていたんです。何か手がかりにならないかなって思って。ジャンさんはこういうこと、 詳しそうだったから」
「ジャンは魔法使いだもんね」
 梓が無駄な茶々を入れる。
 いらない一言をしっかり聞きつけた魔術研究同好会の残り二人の、興味津々といった風の眼差しを受け流すことができず、 昨夜梓に話したのと同じ身の上話を繰り返す。訊かれて隠すほどのことではないが、こんなこと、あえて他人に話すようなことでも ないのに。
「ジャンさん、魔法使いだから詳しかったんだ」
「すごいな…」
 正式に認定された術士ではないといくら説明しても、この三人には関係ないらしい。すごいすごいと、図ったように三人ともが 口をそろえる。
「しかし召喚術が普通にあるってなると、色々と問題になったりしないのか?そう頻繁に異世界召喚なんてしてたら、 今のジャンみたいに困る人間が大勢でたりするんじゃ…」
「召喚術は必ず、返還術とセットで行われる。昔は他人の迷惑顧みないで召喚し放題だったこともあったみたいだが…。 今では、召喚術を使うには国の許可が必要だって法律もできたし、そんなにトラブルはないはずだ」
 もっとも、非合法な術の行使も皆無ではないようだが。
「それに召喚術ってのは、誰でも彼でも自由に喚べるって訳じゃないんだ。心底から嫌がってる人間を無理矢理に引っぱってくることは そうそうできない。だから、最終的には問題にならずに終わることが多い」
 召喚者の、自らの声に答えて欲しいという願い。
 召喚される者の、望みや憧れや、心の奥底に沈んだ微かな思い。
 その二つが一致して初めて、異世界の人間を召喚するなんていう奇跡的な事象が実現するのだ。
「ジャンは、何を考えていたの?」
「は…?」
「『心底から嫌がって』なかったんでしょ?」
「………」
 つい先ほど俺が口にした言葉を引用されて、ようやく梓の言わんとする意味を理解する。
「…さぁな」
 ただそれだけを言い返して、俺は梓から目をそらした。






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