背もたれのない椅子に腰掛けて、アリアはひたすら惚けていた。肩くらいまでしかない自分の癖っ毛が 器用に結い上げられていく様を鏡越しに眺める。
 この三日間は、本当にあっという間だった。
 ジェラルドたちとの会食を行った翌日の朝、食事を終えるや否や、メイドとはまた違ったお仕着せの 制服を着た女たちに突然、アリアはものすごい勢いで拉致された。カイとも引き離されて、 どことも知れぬ一室に連れて行かれる。
(ここどこっ…!?)
 きちんと教育をされた者らしい丁寧な振る舞いで、しかしかなり強引に引き回されたせいで、 アリアは自分の現在地を完全に見失っていた。混乱極まるアリアを取り囲んで、女たちはなにやら 楽しそうにきゃいきゃいとはしゃいでいる。女三人寄れば姦しいと言うが、三人以上いる場合は どうなるのだろうと、自分も女であることを忘れて思う。
「あなたたち、少し静かになさい」
 涼やかな声が響いた。
 その声を聞いた瞬間、騒がしかった女たちがぴたりと静かになる。くるりと入り口の方を振り返り、 そろってお辞儀をした。
「ごめんなさい、シエラ様」
「つい嬉しくて…」
 子供が親に叱られた時のような、ばつの悪い表情。
 女たちと同じ制服に身を包み、緩やかに波打つスカイグレイの髪を襟元で一つに束ねた、シエラと 呼ばれたその人がやれやれという風にため息をつく。歩み寄ってくるシエラに道を譲るように、アリアを 包囲していた女たちが左右に分かれた。
「申し訳ありません、アリア様。女官たちが失礼な真似をいたしました」
 緑の混ざった不思議な色合いの、灰色の瞳が微笑んだ。艶やかだが、媚びたところのない 堂々とした態度で騎士のように礼をとる。
「青竜の巫子様付きの女官長を務めております、シェラザードと申します。 どうぞシエラとお呼び下さい」
「シエラ…さん?」
「シエラと。敬称は不要です、アリア様」
 にっこりと当たり前のように言われて、あきらめる。自分より年長の相手を呼び捨てることに対する 抵抗はあったが、頭では既に仕方のないことと納得していた。皆それぞれ立場というものがある。 これもまた、竜の巫子としての役目だということなのだろう。アリアの方が慣れるしかない。
「あの、シエラ…今どういう状況なのかを教えてもらえますか?」
 躊躇半端な丁寧語でおずおずと切り出したアリアに、シェラザードの目が丸くなる。振り返ると、 ずらり並んだ女官たちが視線をさまよわせた。それで事を察したのだろう、シェラザードは再び、 その場の全員に聞こえるような大きなため息を落とした。
「本当に申し訳ありません。皆、悪気はないのですが…。アリア様がいらっしゃって、 喜んでいるのです。あなたのようなお可愛らしい巫子様にお仕えすることができるのは、 青の宮で働く私たち女官にとってとても誇らしいことですから」
 整った顔立ちに、メリハリのある体。シェラザードのような完璧な美人に可愛らしいなどと言われても 冗談にしか聞こえない。しかし当のシェラザードは、心底本気のようだった。じっと見つめられて、 照れる。
「本日は、契約の儀で着て頂く礼服の衣装合わせでご足労願いました」
 シェラザードの合図で、女官たちが動き出す。壁際に置かれたキャスター付きの衣装掛けが アリアの元に運ばれ、針や糸などの裁縫道具、様々な色調の布などを持った女官がその周りに待機する。 二人がかりで服を脱がされそうになって、流石に慌てた。
「ま、待って。自分で着替えられるから…!」
 心なしか残念そうな顔をして見える一同から身を守るように、アリアは一歩後ずさり、 急いで服を脱ぎ始めた。

 ほとんど白に近い、ごく薄い青色のローブは、教会の聖歌隊が着るものに似ていた。体を覆う 柔らかい布の、その腰の辺りで太めの帯を結ぶ。足首まで届く裾は自然な形に広がっていて、 歩きにくさは感じない。薄手のケープを羽織って、それで終わりかと思いきや、ここからが本番だった。
 あちらこちらを採寸したり、縫ったり、布を当ててみたり、髪をいじったり。忙しく動き回る 女官たちに着せ替え人形よろしくされながら、アリアはじっと我慢していた。正直疲れを感じないでも なかったが、なかなか言い出せないまま今に至る。真剣な様子でいるところを邪魔してしまうのは、 なんだか申し訳なかった。そもそも皆、アリアの衣装の為に働いているのだ。
「アリア様。お疲れではないですか?少し休憩にしましょう」
「少しだけ。でも、大丈夫です。……それよりも、衣装合わせって、サイズを見て終わりじゃないん ですね」
 儀式の場で着る礼服は、制服などと同じでだいたい形式が決まっているはずだ。こんなにも改造を 加えてしまっていいものなのだろうか。
「巫子様は当代たったお一人の、大切なお方ですから。基本の型はありますが、一着一着、巫子様に 合わせてお作りするのがしきたりとなっているんです」
「あまり形を変えてしまうのは駄目なんですけど」
「限られた中で、どれだけ巫子様に似合うものが作れるかが私たちの腕の見せ所なんですよ」
 手は止めずに、女官たちが笑う。
「目や髪の色、お顔立ちや雰囲気を見て、一番お似合いになるものを作るんです」
「アリア様は、お好きな色ってありますか?」
 アリアが質問攻めに遭いかけたその時、コンコン、と無機質なノック音が割って入ってきた。
「失礼致します。巫子様のお食事の用意が整いましたので、呼びに参りました」
 ドア越しでもわかる。カイの声だ。今朝別れてからそれほど時間は経っていないはずなのに、 なぜかとても久しぶりのような気がする。
「少しお待ち下さい」
 アリアが口を開くより先に、シェラザードが返事を返す。
 ぐるりとシェラザードが女官たちを見回した。それだけで、心得たように皆が動く。
「寸法はばっちりです」
「デザインの方も、だいたい決まりました」
「こちらも問題ないです」
 打てば響く返答に一つ頷いて、シェラザードはアリアに向けて一礼した。
「アリア様、お付き合い頂いてありがとうございました。あとは私たちにお任せ下さい」
 慣れた手つきで素早くケープを脱がされる。仮縫いした状態で下手に脱ぎ着をすると糸が外れてしまう 可能性があるので、ローブを脱がそうとする手にも素直に従った。自分の服を受け取り、 手早く着替える。
 着替えの際に乱れたアリアの髪を優しい手つきで整えて、シェラザードはドアの向こうのカイを 呼んだ。
「どうぞ、お入り下さい」
 一拍置いて、騎士の顔をしたカイが姿を現した。
 瞬間、部屋の空気がざわっと色めき立ったように感じたのは気のせいだろうか。振り返るが、 さっきまでと変わったところは何一つない。内心首を傾げながらもアリアは女官たちに会釈をして、 促されるままカイの後ろについてその場を後にした。


 午後になって、アリアは一人の老人に呼び出された。小柄だが、しゃんと背筋の伸びた体を濃紺の ゆったりとした長衣に包んだ穏やかな面立ちの老人はアイザックと名乗り、青の宮における祭事の すべてを取り仕切る責任者だと言った。
「竜の巫子というのは、竜の君が持つ力を代わって振るうために存在します」
 そんな当たり前の説明からアイザックの話は始まった。
「竜の君は、我ら人間には計り知れないほどに強大な力を有しておられる。遙か昔、大戦において 直接的に大地を滅ぼしたのは、竜の君を始めとする竜族だったと言われています。人間には、 それほどの力はなかった」
「そんなこと……誰にも、習わなかったです」
 アリアが聞かされてきたのは、大戦によって疲弊した大地を竜の君が甦らせたという、まるで 御伽噺のような歴史だけだ。その竜の君が、大地を滅ぼした張本人だなどと言う者はいなかった。
「竜族がすべての原因という訳ではありません。我ら人間とて愚かだった。ただ偶然、竜族には力が あった。不幸な偶然です。そして竜の君は、そのことを後悔し、過ちを繰り返すことを恐れて おられるのです。だから、自らの力を封じ、封印を解く鍵を人間に託した。人間の脆弱な肉体で扱える 程度の力であれば、さほどの危険はありませんから」
 そんな竜の君の思いやりや優しさを皆が理解しているからこそ、今この事実を知る者が少ないの だろうとアイザックは言った。故意に事実を隠蔽したのではない。自然と人々の口に上らなくなり、 やがて淘汰されていったのだろうと。
「契約の儀とは、竜の君からその鍵をお預かりし、決して間違った使い方をしないということを 誓うための儀式なのです」
「………一つ、質問をしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。私に答えられることでしたら、お答えします」
「契約の儀を行って、鍵を手にして初めて、竜の君がもつ力の封印を解き、扱うことができると 仰いましたが…」
「ええ。その通りです」
「私は一度、オルフの力を使っているらしいのです。私自身は、まったく覚えがないのですが……」
 それほどの資質と、同じだけの危険性を有していると言われて巫子になるべく王都までやってきたが、 実は今でも半信半疑だったりする。自分が、そのような特別な何かをしたとはどうしても 実感できない。
「そのお話も、オルフ様から聞いております。雨を止ませたそうですね」
 改めて口に出されると、ますます冗談のように聞こえる。なんだかすごく恥ずかしいことを 言ってしまったような気がして、アリアは誤魔化すように目の前の紅茶を一気に飲み干した。 すっかりぬるくなってしまったその温度が、今のアリアにはちょうどよかった。
「しっかり施錠をしていても、どこからか盗人が入ってしまうことがあるでしょう?」
 返された言葉は、アリアの問いかけに対する返答には聞こえなかった。意味を読み取ろうとする ように、アイザックを見つめて返す。
「表現はあまりよくないですが、同じことなのです。竜の君が施した封印であっても、完全ではない。 必ずどこかにほころびがある。稀にそのほころびを通して、鍵のない状態で竜の君の力を引き出すことの できる人がいるそうです」
 もっとも私自身、お会いするのはこれが初めてですが。そう付け加えて、アイザックはアリアに 笑ってみせた。
「要するに、相性の問題です。占いで相性のいい人がいるのと同じように、あなたはオルフ様と 相性がよかった。だから無意識に、力を使うことができた」
 子供が見る夢のような都合のいい展開よりも、相性占いのようなものだと言われた方が不思議と 納得できた。元々理屈などないようなものだ。逆にそんなものか、と思ってしまう。
「さて。それでは、そろそろ本題に入りましょうか」
 アイザックの言葉に、はっとする。そもそも契約の儀の内容について説明を受ける予定だったのを すっかりと忘れていた。それだけ話に没頭してしまっていたということだ。
 アリアは老人に向かって深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そんなに畏まる必要はないですよ。こちらこそ、よろしくお願いします」
 顔のしわをくしゃりと深くして微笑むと、アイザックは同じように頭を下げた。


(緊張する…。確かに、それほど複雑な儀式じゃなさそうだけどさ)
 アイザックも、三十分もあればアリアの出番は終わるだろうと言っていた。実際に教わった大まかな 流れを見ても、長々しかったり、複雑だったりするものではなさそうだった。
 自分でも、度胸はある方だと思う。聖歌隊で、ソロで歌うことも何度かあった。しかしやはり、 初めての経験ではどうしても緊張してしまう。アリアにとってこれから行われる契約の儀が、 竜の巫子としての初仕事なのだ。
「アリア様。着替えをお持ちしてよろしいですか?」
「あ……はい。すみません、ぼーっとしてしまって」
 横から声をかけられて、はっと我に返る。
 気が付くと既に、アリアの髪は綺麗に結い終わっていた。ハーフアップされて、ふわりと広がる 黒髪に乳白色の真珠の粒が飾られ、淡く輝いて見える。薄く化粧をされて、記憶にあるよりも大人っぽい 顔をした自分が鏡の向こう側からアリアを見つめている。
 椅子から立ち上がって、女官の一人が大事な宝物を扱うように掲げ持ったローブを受け取り、 着てみて、驚いた。
 まるであつらえたように、アリアの体の線にぴったりと合う。その胸元から、蔦が這うような 銀糸の刺繍が裾まで伸びている。帯にも緻密な刺繍が施され、その上から色彩鮮やかな組紐を 飾りに結ぶ。ケープには、髪に飾ってあるのと同じ真珠が所々あしらわれていた。派手ではないが 存在感があり、上品に人目を引く。どれも、二日前に衣装合わせをした時にはなかったものだ。
「これ、二日間で全部やったの?」
 信じられない。一体、どのような神業を用いたのか。
「すごい綺麗……」
 思わず漏れたつぶやきに、自慢げに女官が胸を張る。
「気に入って頂けて嬉しいです。みんなこの二日間、徹夜で作業したんですよ」
 やっぱり、と思う。これだけの作業をしたのだ。むしろ、二日間の徹夜で済んだだけでもすごいこと なのだろう。
「アリア様。私たちみんな、楽しんでいるんですよ」
 女官たちの苦労を思い、申し訳なく思ったのが顔に出たのか、着替えを手伝ってくれていた女官が アリアの顔を下から覗き込んだ。
「だからこれは、アリア様のためだけど、それだけじゃなくて。自分のためにやっていることでも あるんです」
 だから気にするなと、そう言いたいのだろう。
 アリアは女官たち一人一人、その顔を順番に見やった。皆が、微笑んでアリアを見ている。 疲れや陰りがない訳ではない。しかしそれ以上に、揺るぎない何かが見えた。それはきっと、 自分たちの仕事に対する誇りとか、自信とか、そんなものなのかもしれないとアリアは思った。 エディードや、教会のシスターたちと同じ顔。どんな苦労や悲しみがあっても、自分の選んだ道を 後悔していない。
 なんとなく、わかったような気がした。アリアは女官たちに対して、遠慮をしてはいけないのだ。 なぜなら、竜の巫子であるアリアの世話をするのが女官たちの仕事なのだから。アリアがすべきことは、 自分がしてもらったことに対して『ごめんなさい』ではなく、『ありがとう』と言うことなのだ。
「ありがとうございました」
 ぱっと、アリアは頭を下げた。
「私のために、こんなに綺麗な衣装を用意してくれて、本当にありがとうございました」
 女官たちの、驚いたような視線が刺さる。
「アリア様、そろそろお時間です。準備の方はよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
 外からかけられた声に勢いよく返事を返す。
 行ってきますと手を振って、アリアは部屋を飛び出した。






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