完全に、道に迷ってしまった。
 記憶では厨房までそう遠くはないはずだった。しかしいくら歩いても、一向にそれらしき場所に たどり着かない。まずいと思って引き返そうとした時には、それすら叶わなくなっていた。見覚えが あるのかないのかすらわからない場所へと、どんどんと入り込んでいく。誰かに道を尋ねようにも 人っ子一人見当たらない。
「なんでこんなに広いのよ…」
 小さくつぶやいた声が、先の見えない廊下の向こうに吸い込まれていった。こつ、こつ、と 自分の足音が妙に大きく響いて聞こえる。
 こうなったら、その辺りにある部屋を片っ端から覗いてみようかと考える。かなり失礼な気も するが致し方ない。一晩中、道に迷っているよりはましだろう。
 意を決して、手近な扉に手をかける。
 一つ深呼吸をしてそれを押し開けようとした瞬間。
「おい」
「っ…!?」
 突然後ろから声をかけられて、文字通り飛び上がった。音にならない悲鳴を飲み込む。勢いよく 振り返り、背中を預けるように壁に張りつく。
「何をやっているんだ、お前」
 アメシストのような紫の瞳に射抜かれる。眉間に微かにしわを刻んだ、不機嫌そうな男が忽然と 姿を現していた。
「あの、私…厨房を探していて。水を一杯もらおうと思って……」
 変なところを見られてしまった気まずさから自然と早口になる。説明する言葉は、どうしても 言い訳がましい響きを帯びてしまう。
 男の、眉間のしわがより一層深くなった。
「見ない顔だな。客人か」
「はい。まだここに来たばかりで…」
「ふん」
 自分から質問しておいて、男はアリアが話し終えるのを待たずにスタスタと歩き出した。
 アリアは慌てて男の後を追った。せっかく人に遭遇することができたのだ。ここで 見失ってしまったら、また一人きり、迷子に逆戻りだ。
「ちょっと、待って下さいっ」
 男は足が速く、特に急いでいるようには見えないのに、少し気を抜くと置いていかれそうになる。 ほとんど駆け足に近い状態で、男に続いて部屋の中に飛び込んだ。
「ここって…」
 見覚えのある場所。そこはまさしくアリアが目指していた場所だった。部屋に案内される時に 通りかかった、厨房だ。
「道くらいしっかりと覚えておけ。そうじゃなかったら、素直に誰か案内を頼むんだな」
 言い捨てて、男は踵を返した。アリアが呼び止める暇もなく出て行く。その姿はすぐに、闇に まぎれて見えなくなった。
「案内してくれた、のよね…?」
 いまいち自身がもてない。
 とても親切とは思えない態度。歩く速度も速くて、アリアを気遣っているようには感じられなかった。 それでも、男のおかげで厨房にたどり着けたことは事実だ。
「お礼、言いそびれちゃった」
 あの男は一体、何者だったのだろう。迷いない足取りは城の中に詳しい風だった。どこか横柄な 態度といい、もしかすると、身分の高い人なのかもしれない。アリアとそう変わらない年頃の ようだったが、ギルフォードよりはそれらしく見える。
「また会えるかな……」
 もし再び会うことができたら、その時こそ必ずありがとうと伝えようと、アリアは心に誓った。


 コンコンと、軽いノックの音が聞こえる。誰かの声が名前を呼ぶ。それに呼び寄せられるように、 アリアの意識は急速に浮上していった。瞼を開いて、辺りが既に明るくなっていることに驚く。
(寝過ごした…)
 日の高さから察するに、随分と眠っていたらしい。原因は考えなくとも明白だった。昨日の夜、 予期せぬ城内探検をしてしまったせいだ。あの後、見回りをしていた衛兵にたまたま遭遇することが でき、おかげで帰り道は迷わずにすんだ。なんとか無事に行って帰ることはできたものの、往路での 迷子が響いて結局、部屋に帰りつく頃にはかなり遅い時間になっていた。
「……九時過ぎてるし」
 壁にかけられた時計を見て、頭を抱える。夜明けと同時に起床する生活をしていた自分が、 こんな時間まで寝こけているとは。
「アリア、起きたのか?」
 ドアの外から呼びかけるのは、カイだ。
 アリアは慌ててドアの方へ向かうと、そっとそれを開いた。
「おはよう」
「お、おはよう…」
 当たり前のように完璧に身支度を整えてあるカイの姿に、挨拶を返す声が小さくなる。
「元気ないな?疲れてるなら、もっと寝ててよかったのに」
「そんなに寝たら、かえって体の調子がおかしくなっちゃう」
 現時点でも十分に眠り過ぎだ。なんだか、体がだるい感じがする。
「朝食はどうする?部屋まで運ばせるか?」
「もうとっくに配膳、下げちゃってるでしょ。お昼まで待つわ」
「そんなに気を遣わなくていいんだぞ?」
「…ううん。そんなにお腹も空いてないし。大丈夫」
 中途半端な時間に食事の支度をすることの手間はわかっているつもりだ。アリア自身、 教会にいた頃にはやっていたことなのだ。それに、あまり空腹でないのも事実だった。 昨夜ついつい調子に乗って、果物や焼き菓子をつまんでいたせいだろう。
「ならいいけど……。俺は隣にいるから、何かあったら遠慮しないで言えよ?」
「…カイは、仕事とか、戻らなくていいの?」
「言っただろ。俺の仕事はアリアの傍にいることだって」
 そう言ってカイは、とても嬉しそうに笑う。見ている方が赤面してしまいそうなほどに眩しい笑顔。
「……ありがと」
「ああ。時間になったらまた声をかけるから」
「うん」
 手を振ってカイと別れる。
 ドアを閉めると、広い部屋に再び一人きりになった。
 また昨日のように一緒にいてくれるのかと思っていたから、カイがあっさりと行ってしまったのは 少しだけ意外だった。やはり、他にも仕事があるのだろうか。アリアのせいでカイの仕事の邪魔を しているのだとしたら、本人がいくら大丈夫だと言おうと問題だ。
「頼りきってるなぁ、私」
 ため息が出る。
 カイに。ギルフォードに。オルフに。ここまでの道中、ずっと彼らに頼りっぱなしだ。 なるべく自分の力で何でもやるようにはしているが、どうしても精神的に依存してしまっている 部分がある。彼らの方もまた、何かにつけてアリアを気遣おうとするから余計に頼ってしまうのだ。 そんな自分が、ひどく情けない。
 二度目のため息をつきそうになった自分に気付き、アリアは沈んだ気持ちを追い払おうとぶんぶんと 頭を振った。
(できることからやっていこうって、決めたばっかりじゃない。落ち込む暇があったら 行動あるのみ、よ)
 そう自分に言い聞かせて、顔でも洗おうと洗面台へ向かう。鏡を覗き込んで、アリアはぎゃっと 悲鳴を上げた。
 ただでさえ言うことを聞いてくれないアリアの癖っ毛が、寝癖で更にあちこち飛び跳ねている。 起きたばかりで、まだ身支度も何もしていないのが誰の目にも明らかな、だらしのない姿。
 なぜカイが部屋に入って来なかったのか、理由がわかった。彼はアリアのこの姿を見て、 気を遣ったのだろう。
「最悪…」
 さしあたっては、この頭を何とかする必要がありそうだった。


 寝癖を相手に悪戦苦闘する内に、あっという間に昼は訪れた。呼びに来たカイに連れられて移動する。 昨夜のように部屋で食事をするのかと思ったが、どうやら食堂に行くらしい。アリアが食事を している間に、部屋の掃除をするのだそうだ。頼めばおそらく部屋で食事もできたのだろうが、 掃除の邪魔をするのも申し訳ないので素直に従う。
(一体どれだけ広いのよ、お城って…)
 また昨日のように、あちこち歩くことになるのかと密かに心配していたのだが、今回は思ったよりも 早く、目的の場所に到着した。恭しい仕草でカイが扉を開き、アリアは少し恐縮しながらそこを くぐった。
 その他の場所と同様、食堂はやはり広かった。窓が大きく、外の光が存分に取り入れられた室内。 中央には、白いクロスのかけられた長方形の長いテーブルが鎮座している。
「どうぞ、アリア」
 カイにエスコートされてテーブルにつく。アリアを座らせた後、カイが控えるように後ろに 立ったままなのに気が付いた。不思議に思い、カイを見上げる。
「カイは?一緒に食べないの?」
「俺は後でいいよ」
「……」
 これも、けじめというやつだろうか。こんな風に、知り合いを後ろに控えさせた状態で自分一人が 食事をするというのは、正直やりにくい。味などわからなくなってしまいそうだ。
「お願いだから、一緒に食べてっていうのはダメ?気になって食事どころじゃないんだけど」
「そう言われてもな…」
「何か言われたら、私が無理言ったからだってちゃんと説明するから。お願い」
 渋い顔で考え込むカイを、期待を込めた眼差しでじっと見つめる。
 ふっと、カイが何かに気付いたように視線をずらした。
「カイ・ロクスウェル。意地悪せずに、言う通りにしてやったらどうだ?」
 カイの視線を追いかけると、いつの間に入ってきたのか、入り口の辺りに一人の男が立っていた。
「ギル………じゃ、ない」
 一瞬見間違えてしまうほどに、男はギルフォードに似ていた。姿形だけではない。全身にまとう 雰囲気が、ギルフォードと酷似している。ただギルフォードの方が、男に比べていくらか親しみやすいと 感じる。この男には人を圧倒し、従える、そんなプレッシャーがあった。
 アリアが小さくつぶやいたのを聞いて、男が笑う。
「どうやら弟とは仲良くしてもらっているようだね」
「弟……」
 ということは。
「エディアルド様」
 カイが礼をとる。
 エディアルドと呼ばれた男は頭を上げるようカイに言うと、アリアに歩み寄ってきた。 すっと右手を差し出される。
「ギルフォードの兄の、エディアルドだ。よろしく」
 そこまでされて、ようやくアリアは状況を把握した。慌てて椅子から立ち上がり、恐る恐る エディアルドの手を握る。
「アリア・ニールセンと申します、エディアルド様」
「アリアと呼んでも?」
「はい。エディアルド様のお好きなように呼んで頂いて構いません」
 堅苦しい物言いにエディアルドが苦笑するのがわかったが、それだけだった。
「エディアルド様、本日はいかがされましたか?」
「二人きりの時間を邪魔されたからといって、そのような顔をするな、カイ。ギルフォードが 連れてきた新しい巫子の顔が見たくて、急いで仕事を片付けてきたんだ。……さぼったりしてないぞ?」
 エディアルドが冗談めかして言うと、もうそれ以上、カイには何も言えなくなってしまう。 駄目押しに口元だけで笑ってみせると、カイは一礼して後ろに下がった。
 アリアとしては、あっけなく引き下がったカイが少し恨めしい。そうするしかない場面だと いうことはわかるが、初対面の王子殿下と一対一で話をするのは少々つらい。人見知りをする 性格ではないが、それとこれとは話が違う。一体何を言ったらいいのか、そればかりぐるぐる 考えていると、握られたままになっていた手をふと持ち上げられた。そのまま、手の甲に口付けられる。
「………っ!?」
「まさか、こんなに可愛らしいお嬢さんだとは思わなかった。嬉しい誤算だ」
 エディアルドは手を離そうとしない。壊れ物でも扱うように、そっと両手で包み込むようにされる。
 あまりの事態に意識が遠くなりかける。アリアの混乱が最高潮に達しかけたその時、救世主は現れた。
「エディアルド兄上っ!」
「やあ、ギルフォード」
 怒鳴り込む、という表現が最も適当だろう。エディアルドが未だアリアの手を握ったままであるのを 見ると、ギルフォードは大股で室内に入ってきた。
「何をやっているんですか、あなたは」
「今、お前が連れてきた巫子に挨拶をしていたんだ」
「挨拶ならもう終わったからいいでしょう。いつまでも手を握っていないで早く離して下さい」
 言いながら、エディアルドの手をアリアから引っぺがしにかかる。
「どうしたんだ、むきになって。誰も嫌がったりしていないんだから、別にいいだろう」
「嫌がってます。離して下さい」
「嫌だなんて一言も言っていないが?」
「言える訳がないでしょう」
 ギルフォードの尽力の甲斐あって、ようやくアリアの手が解放された。
 ほっと息をつく暇もなく、エディアルドの口から爆弾が投下される。
「うらやましいなら、お前も手くらい握ればいいだろうに」
「………」
 絶句した。
 最早何も言うことができず、ただぽかんと間抜けな顔でエディアルドを見上げる。
「兄上!」
「挨拶も済んだし、私はそろそろ戻るよ。それじゃあアリア、また後ほど」
 場を散々引っかきまわした挙句、もう気は済んだというように、エディアルドは一人さっさと 食堂から出て行った。
 カイが重々しいため息を吐き出す。ギルフォードは無言で、エディアルドが去っていった扉の方を にらんでいる。
「………」
 嵐のような出来事に、寄る辺のない小舟のように翻弄されて、アリアは少しだけ頭を抱えたくなった。






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