王都クィンベリル。
 翼竜が横たわるのに似た形状をした大陸の、ちょうど首の付け根の辺りに位置する、 ヴォルフハルトで最も栄える町。町中に張り巡らされた運河は熟練の職人によって整備され、 人々の生活を支えている。
 町の中心部分にはこの国を統治する王が住まう城があり、同じ敷地内に、竜の君と巫子のための 宮殿がある。宮殿は青竜ヴォルフハルトを思わせる青の色調で統一され、その外観から、 青の宮の名称で呼ばれている。


 アリアたちが王都の門をくぐる頃には、既に夕暮れ時を迎えていた。家路を急ぐ母親や子供たち。 店仕舞いをする商人と、逆にこれから開店準備にいそしむものたち。昼間とは異なる喧騒が 町を包み込む。
 それらを横目に見ながら、両脇をカイとギルフォードに挟まれた状態で歩いていく。 はぐれないためだと二人は口をそろえて言うが、アリアとしては若干、いや、かなり過保護気味 なのではないかと思う。無断で宿を抜け出したあの一件以来、どうやらアリアは目を離すと危ない、 という認識をもたれてしまったらしい。
「そんなに信用ないかな…」
「いや、ないだろ」
 独り言のつもりだったが、左隣のギルフォードがこれに応じた。右隣にいるカイも、無言で首を 縦に振っている。
 あんまりな反応に憮然としていると、先導するように前を歩いていたオルフが振り返り、 意味ありげに笑った。
「二人とも、まだ他に理由があるでしょう?」
 途端、二人がしまったという顔でアリアから視線をそらした。
「何よ、その反応。まだ何かあるわけ?」
「………」
「………」
 言いたくない、と思っているのがありありとわかる。しかしアリアとしては、黙っていられたのでは 何のことだかわからないし、わからない以上は気をつけようもない。
「ギルフォード。カイ。アリアが困っているよ」
「あー…、うん」
「………」
 なぜかとても嬉しそうな様子でオルフが促す。
 やがて観念したように、カイがぽつりと言った。
「……心配、なんだ」
「え?」
 聞き返すが、それ以上は口を開こうとしないカイに代わって、がしがしと頭をかきながら ギルフォードが後を引き継ぐ。
「そうだよ、アリアが心配なんだ。自分が、安心したいから、こうしてあんたに引っ付いてるんだ」
 一息に言い切って、右の手の平で顔を半分覆う。
 信用がないからではなく、心配だから。見張っているのではなく、見守ってくれている。
 ほんの少し見方を変えただけで、がらりと印象が変わってくる。
「そっか。心配、してくれてるんだ…」
 こうして心配してくれる人がいるということが、嬉しい。
 アリアは両隣にある二人の腕を捕まえると、強引に腕を組んだ。
「ぅわっ!」
「なっ…」
 うろたえるカイとギルフォードを順番に見上げて、それからオルフを見て、笑う。
「ありがと。私、みんなと一緒でよかった」
 アリアを迎えに来たのがこの優しい人たちでよかったと、心から、そう思った。


 城の中は、アリアの創造に反してとてもシンプルな造りになっていた。華美な装飾などはほとんどなく、 実用性を重視したという感じだ。しかし決して粗末というわけではなく、そこにある一つ一つが 繊細で、細部までこだわりをもって造られたのだろうということがアリアにもわかる。
 そんな城内の、幅の広い廊下をギルフォードの後ろに付いて歩く。物珍しそうにきょろきょろ していると、くすりと笑い声が聞こえた。
「珍しい?」
「あ……」
 指摘されて、思わず真っ赤になるアリアを見て、何がそんなに嬉しいのか相変わらずオルフが にこにことする。
「大丈夫。すぐに慣れるよ」
「そうだといいんだけど…」
 本当に、城などという空間に慣れることができるのだろうか。
 すれ違う人たちが皆、頭を垂れて道を空けてくれるのも非常に居心地が悪い。
 風を切って、堂々と歩くギルフォードは流石だと思う。王族の貫禄とでも言うのか。他者に かしずかれることが当然の環境で育ち、自身もそれを当たり前のことだと認識しているような。 この世に生を受けてから十七年間、ずっと庶民として生活してきた自分が、ギルフォードのように 振舞うことができるとはどうしても思えなかった。
「…リア、アリア!」
「へっ!?」
 知らず、ぼーっとしてしまっていたらしい。カイに揺すられて、間の抜けた声を出してしまった。
「な、何?」
「何、じゃないだろ。着いたぞって言ったんだ」
 言われて慌てて辺りを見回すと、いつの間にか大きな扉の前で足を止めていた。
「とりあえず、しばらくの間はこの部屋を使ってくれ」
 通された部屋は、今まで歩いてきた廊下に負けず劣らず、アリアの日常からかけ離れたものだった。
 教会にいた頃、モニカと二人で使っていた部屋の何倍の広さがあるのだろうか。大きなベッド。 大きなチェスト。テーブルの上には籠に盛られて、果物と焼き菓子が用意されている。二間続きに なっていて、そちらには洗面台や、バスタブ付の浴室までもがあった。
「足りないものがあったら遠慮なく言えよ?」
「いや、十分過ぎるくらいです…」
 これだけのものを用意してもらっておいて、何が足りないと言うのだろう。恐縮するのを通り越して、 呆れてしまう。
「それじゃあカイ。隣の部屋も用意させておいたから、しばらくアリアに付いててやってくれるか」
「了解しました」
 ギルフォードが出口の方向へと足を向ける。驚いて、アリアはそれを呼び止めた。
「ギル、どこかに行くの?」
「ああ、陛下に挨拶しに。色々と報告することもあるしな」
「陛下…」
 というのは、もしかしなくともヴォルフハルト国王のことだろうか。
「なんだ。一緒に来るか?」
「いやいやいや!何を、いきなり、とんでもないことを!?」
 ぶんぶんと音が出そうな勢いで両手を振り回す。だって私こんな汚い格好でいや綺麗だったら いいのかと言われると急にそんな心の準備ができていない訳で…と自分でもよくわからないことを 口走る。そんなアリアをギルフォードはぽかんとして見ていたが、しばらくして、ふっと笑った。
「わかった。今日のところは、ゆっくり休んどけ。なんだかんだで疲れただろ」
 親が子供にするように、もしくは兄が妹にするように、ギルフォードがアリアの頭を撫でる。 大きくて、硬い手の平。エディードのものとは違う感触。
 すぐに離れていったそれを名残惜しいと感じている自分に、アリアは戸惑った。
 そんなアリアの内心など知らずに、それじゃあと手を挙げて、ギルフォードが部屋を後にする。
「私も行くよ。アリア、また明日、会いに来るから」
 アリアの手を一度ぎゅっと握って、オルフもまたギルフォードに続いて部屋から出て行った。


「行っちゃった…」
 部屋の中が急に寂しくなったように感じる。
「……カイは?行かなくていいの?」
 椅子に腰掛けテーブルに肘を付いて、上目遣いにカイを見上げる。
「俺は、アリアといるのが仕事だから。王に目通りできるほどの身分でもないしな」
 入り口付近に直立したままでカイが答える。
「それとも、一人になりたい?それなら、俺は下がるけど」
「ううん。ここにいて」
 アリアはぱっと立ち上がった。
 初めての場所。それもこんなに広くて豪華な部屋で。いきなり一人きりにされてしまうのは 少々心細かった。ギルフォードとオルフがいなくなってしまった今、見知った人間はカイ しかいないのだ。
 アリアの必死な様子にカイは一瞬驚いたような顔をした後、おもむろに歩み寄ってきた。 もう一脚ある椅子に、アリアと向かい合う形で座る。柔らかな表情と、気遣うような眼差し。
「ここにいる。だから、心配しなくていい」
「心配なんてしてないわよ」
 不安に感じていた心を、カイに見透かされてしまったようで。その気恥ずかしさから、アリアはわざと 音をたてて座り直すと、ふいと顔を背けた。
 ずっと、カイのことを守るのはアリアの役目だったのに。今だって、カイは大切な弟のようなもので、 守ってあげたいと思っているのに。
 思いとは裏腹に、カイと再会してから、弱いところばかり見られてしまっている気がする。
「それよりも!」
 アリアにとって非常に分の悪いこの空気を取り払おうと、大きな声で強引に話題を変えにかかる。
「カイって、すごい猫かぶりよね。ギルたちがいる時、全然態度が違うもの」
 咄嗟にしては上出来だと思う。実際、王都までの道中ずっと気になっていたことだ。 ギルフォードやオルフが共にいる時、カイはまるで別人のように振る舞う。言葉少なく、 常に一歩下がった場所に控えるように立っている。隙のない身のこなしは、見る人にいかにも 訓練を受けた武官のものらしい印象を与える。
「別に猫をかぶってる訳じゃないさ。アリアといる時が特別なんだ」
「何よそれ。どういう意味?」
「………アリアが、特別に仲がいいってだけだよ」
 ぽつりと言って、逃げるように横を向く。
「仕事と、プライベートは違うだろ。けじめだよ、けじめ」
 けじめという、同じ言葉をギルフォードも口にしていたのを思い出した。
「ふうん…そんなもの?」
「本当はもう、アリアと二人でいる時間だってプライベートじゃないんだけどな」
 竜の巫子と、それを守る騎士なんだからとつぶやいたカイが、自らを嘲るように微かに笑う。
 アリアは無意識に、カイに向けて手を伸ばしていた。高い位置にある、その髪に触れる。
「いいじゃない、このままで」
「……アリア?」
「いいの、カイはこのままで。騎士じゃないと、カイは私を守れない?幼馴染のままじゃ、ダメ?」
 昔よくそうしていたように、カイの頭を撫でる。何年経っても変わらない感触が懐かしい。
「幼馴染だから助けたいっていう方が、騎士だからとか、仕事だとか、そんな理由よりも私は好きだよ。 私が巫子になることを迷ってた時に、カイが力になるって言ってくれて、すごく嬉しかった」
 いつの間にか、カイの褐色の瞳がアリアを見ていた。相手の呼吸すら感じられそうな至近距離。 頭を撫でていた手を取られて、ぎゅっと握られる。
「……アリアは、俺が守るよ。アリアが巫子だからとか、俺が騎士だからとか、そんなことは関係ない。 アリアは俺の………大切な人だから。絶対に守る」
 微動だにしない強い眼差しは、それだけカイが真剣なのだという証だ。
 カイの思いが嬉しくて、つい、にやにやとしてしまう。
「ありがと。私も、カイのこと守るよ。カイは私の大切な、弟みたいなものだからね。………って、 カイ?」
 なぜか急にテーブルに突っ伏してしまったカイを覗き込む。
「どうしたの、急に。具合悪い?誰か呼んでこようか?」
「…いや、いい。体の不調じゃあないから」
 顔を伏せたまま喋っているため、その声はくぐもっていてよく聞こえない。微かに聞こえるその中に、 アリアを非難する響きが混じっているように感じたのは気のせいだろうか。
「本当に大丈夫なのね?嘘ついて、何か隠してるんだったら怒るわよ」
「アリアが怒ると怖いのはよくわかってるよ」
 降参するようにカイが両手を上げた。しみじみと嘆息する。
「本当に、アリアは変わってないんだな…」
「あら。人間って、そう簡単には変わらないものなのよ」
 アリアがひょいと肩をすくめる。
 穏やかな空気が流れる。カイの言う通り、本当に変わらない。居心地のいいそれに包まれて、 アリアは笑った。

 それから、カイはずっと傍にいてくれた。使用人らしき女の人がもって来てくれた夕食をアリアの 部屋で一緒に食べて、ふかふかのソファに二人並んで色々な話をした。そのうちにいつしか、 段々と夜は更けていった。


(ここ、どこだっけ?)
 見覚えのない広い天井に一瞬考える。頭だけ動かして、ぐるりと辺りを見回すうちに意識が はっきりとしてきた。
(そっか、もう、王都に着いたんだ…)
 部屋の中は既に明かりが消されており、薄いカーテン越しに微かな月の光が差し込むのみだ。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。ベッドに入った記憶がないところからすると、カイが 運んでくれたのだろうか。そのカイも自室に戻ったのだろう。藍色の暗闇の中にはアリア以外の人影は 見当たらなかった。
(喉渇いたな…)
 テーブルには水差しが置かれていたが、中身は空になっていた。そうとわかると、余計に喉が 渇いてくる気がする。
 どうしようかと思案に暮れる。こんなことで、とうに眠っているであろうカイを起こすのは 申し訳なかった。
(そういえば厨房があったかも)
 アリアの脳裏にふとひらめく。この部屋まで案内される途中、厨房があるのを確かに見かけた。 そこまで行くことができれば水の一杯くらいもらえるだろう。
(お城の中だし、危ないこともないよね)
 少し考えて、アリアは静かに部屋を出て行った。

 それが大きな間違いであることに気が付くのに、時間はかからなかった。






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