天井を見上げながら、アリアは息を吐き出した。寄りかかった椅子の背もたれに更に体重を預けて仰向く。
「はぁ…」
 基本的に、愚痴や弱音を吐くのはあまり好きでない。口に出したそこから更に落ち込んで、 どんどん後ろ向きになってしまいそうな気がするから。だから、アリアはすべて吐き出して、そして吸い込んだ。 ため息は、吐いた息と同じ分だけ吸い込めば深呼吸に変わるんだとどこかで聞いたことがある。 一人残された部屋で、アリアは大きく深呼吸をした。
 今日の訓練では久々に魔法の扱い方を教わった。巫子のお披露目の式典前にアスランとやっていたような、 魔法をコントロールする訓練。オルフ抜きで、ディスとは初めて一対一で教えを乞うこととなる。
「お披露目の時の、水の花。あれは素晴らしかったです。つい最近まで魔法の心得がなかった方とは思えない」
 ディスに褒められて、照れる。
「あ、ありがとうございます…」
 しかし次にディスの口から出た言葉に、アリアは停止してしまった。
「では今日はおさらいから。もう一度、あの時と同じことをやってみて下さい」
「え…」
「…どうか致しましたか?」
 怪訝そうにディス。
 どうしようかと考えて、結局アリアは、素直に白状することにした。
「実は…あの時のって、自分でやろうと思ってやった訳じゃないんです」
 あの時は、無意識のうちにあんな事態になってしまった。アスランには危険だと怒られたが、 そもそも無意識の産物なのだから、もう一度やろうとしたってできるものではない。
「つまり、今ここで式典の日の再現をすることはできない、と?」
「というより、できるかどうかやってみないとわからない、というか…」
 しどろもどろになっていると、ディスが突然にこりと笑った。
「わかりました」
 いつも穏やかに微笑んでいるディスだったが、あまりに綺麗な笑顔に逆に不安になってしまう。 アリアがどきどきしていると、ディスは笑った顔のままで。
「それでは、今からやってみましょうか」
 さあどうぞ、というようにアリアを部屋の中央に立たせる。
「大丈夫です。万が一失敗したとしても、ここなら誰かに見られることもありませんから。 ご安心なさって下さい」
「は、はい。…やってみます」
 ここにいるのはアリアの他にはディス一人のみだというのに、なんだか大勢の前でお披露目をしたときと同じような緊張感。 まるで心臓が耳元で脈打っているかのように鼓動が大きく聞こえる。ちらりと一度ディスを見て、それからアリアは目を閉じた。
(あの時は確か…水と、光と、花と、虹)
 多くの人々の歓声と熱気と。それらを心に思い浮かべる。形の見えない何かがアリアの思い、願いに応えようと姿を変える。 そんな、最近ではだいぶ馴染み深いものとなった感覚があって。
 ゆっくりと目を開く。
 殺風景な部屋に花が咲いていた。一輪、二輪と、何もない空中につぼみが生まれ、花開く。大きく開いた花弁が光を受けて七色に輝く。そして。
「………っ」
 一瞬にして、すべての花がはらはらと散り、霧散する。ついさっきまでの幻想的な光景はもう影も形もない。
「失敗、ですね」
「……すみません」
「お気になさらず、巫子様。誰にでも失敗はありますから」
 ディスは笑っている。
「さ、もう一度やってみて下さい」
「………はい」
 優しく促されて、アリアは再び目を閉じた。


 結局あの後は散々だった。何度やってもうまくいくどころか、花一つ咲かせることもできず。ただ焦るうちに、 時間はあっという間に過ぎていった。訓練の終わりの時間を迎え、これからまた仕事に戻るというディスを見送って。 それからアリアはずっとこの部屋で天井を見つめていた。
 手応えはあった。うまくいっているときと、そうでないときとでは感覚が違う。うまくいっていたはずだったのだ。 しかしあの時、ディスと目が合った瞬間、集中が切れてしまった。
(どうして、ディスさんと一緒にいるとこんなに緊張するんだろう)
 自分自身のことなのに、いくら考えてみてもまったくわからない。
 ため息。そして、再び深呼吸。
「巫子様?」
 突然声をかけられて、アリアは文字通り飛び上がった。椅子から落ちそうになるのを堪えて、振り向く。
「すみません。何度かノックして、声もおかけしたのですが…お返事がなかったので」
「ラ、ラーイさん…」
 申し訳なさそうに眉を下げて、ドアを開けたポーズのままのラーイがいた。アリアも驚いたが、そんなアリアの反応にラーイの方も驚いたのだろう。
 慌てて立ち上がり、ラーイに向き直る。意味もなく自分の髪を撫でてみたりしながら、アリアはラーイを見た。
「…そういえば、ラーイさんの顔を見るの、随分久しぶりな気がします」
 実際はほんの数日間に過ぎないのだが。長い間ラーイと会っていなかったような気がしてしまうのは、それまで頻繁に顔を合わせていた相手だからか。
「そのことですが。申し訳ありませんでした、巫子様。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、そんな!そもそも、ラーイさんお忙しいのにわざわざ時間をとってもらってるのは私の方ですし」
 そこでようやくラーイが部屋に入ってくる。アリアの傍までやってくると、ラーイは微笑んだ。
「久々に巫子様のお顔を見ることができて嬉しいですよ」
 変わらぬラーイの笑顔に、なぜかアリアはほっとした。
「私も、ラーイさんの顔が見られて嬉しいです。もう忙しいのはいいんですか?」
「ええ。明日からはまた通常通り、私も講義に戻らせて頂きます」
「もしかして、わざわざそれを言いに来てくれたんですか?」
「それと私が巫子様にお会いしたかったから、ですね」
 ラーイの言葉は優しい。こんな言い方をしてみせるのも、おそらくアリアに気を遣わせないためなのだろう。わかっていても、 会いたかったなんて言われると素直に嬉しいと感じてしまう。
 そんな自分が恥ずかしくて、アリアはわずかに俯いた。このままラーイの顔を見ていたら赤くなってしまいそうだ。
「巫子様は、ずっとここにいらしたんですか?」
「あ、はい。ちょっと考え事をしていて…。すみません、驚かせちゃいましたよね?」
 ラーイに声をかけられた瞬間のばつの悪さを思い出して、ますます俯く。
「巫子様」
 突然に、思いがけない真剣な声音で呼ばれて、アリアは反射的に俯いていた顔を上げた。見上げたラーイの穏やかな微笑を浮かべた面は変わらず、 しかしアリアが思わずはっとしてしまうほどにその眼差しは強く。
「ディス殿と、何かありましたか?」
 どきりと、した。
「いえ、別に何も。……普通です」
 普通に、答えを返そうと思うのに口から出たのは自分でも驚くほどに硬い声で。これでは何かありましたと言っているようなものだとアリアは思う。
「ラーイさん、あの…本当に何かあったとかじゃなくて。ただちょっとうまくいかなくて、それで、そのことを考えていただけなので…」
 段々と、自分でも何を言いたいのかわからなくなってしまう。そんなアリアにラーイは一瞬眉を寄せると、こめかみを揉むように手をやった。 一度目を閉じて、それから開く。
「…申し訳ありません、巫子様。あなたを困らせようと思った訳ではないんです」
 草色のラーイの双眸。そこにはもう、さっきまでの強さはなかった。
「何もないなら、それでいいんです。すみませんでした」
 謝罪するラーイに首を振る。ラーイが心配してくれているのだろうことはアリアにもわかる。心配させてごめんなさいとアリアの方から言うことはあっても、 ラーイに謝ってもらう必要なんてどこにもない。
「巫子様………アリアさん」
 アリアと。名前を、ラーイは呼んだ。
「今じゃなくていい。いつでもいいですから…必ず、話して下さい。何かあったら相談して下さい。何もなくても、ほんの些細なことでも、話をして下さい。 アリアさんが必要だと思ったときに、いつでも」
「ラーイさん…」
「あなたが私のことを気にして、気遣ってくれるのと同じだけ、私もアリアさんが心配なんです」
「………心配かけてごめんなさい。………ありがとう、ございます」
 ラーイの言葉は、やっぱり、とても優しかった。






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