あの時は気付かなかったのだが。
 リュカが言った『先生はここにいる』という言葉。そして、リュカとよく似た音を奏でる人。 考えるほど、この両者が無関係とはアリアには思えなかった。
(ずっと会えなかったって…何かあったのかな)
 そんなことを考えていたせいで、昨日の夜はよく眠れなかった。もしかしたら、どこかから あのバイオリンの音色が聞こえてくるんじゃないか、なんて都合のいいことを考えたりもした。 おかげで、今朝は若干寝不足だ。
 アリアが必死にあくびをかみ殺しているところへ、リィラがやってくる。
「どうしたの、リィラ?」
「カイ様がいらっしゃったのですが、どうなさいますか?」
「あ…」
 そうだった。
 思いにふけるあまり、失念していた。慌てて部屋に通してもらう。
「おはよう、カイ」
「おはようございます」
 堅苦しい挨拶と一部の隙もない立ち姿に一瞬考えて、アリアはシェラザードを振り返った。
「少しでいいので、二人にしてもらってもいいですか?」
「かしこまりました」
 一礼してシェラザードが、女官たちを引き連れて部屋を出ていく。最後、扉が閉まるかちゃりという 音を聞いてから、アリアはもう一度カイを見上げた。
「おはよう、カイ」
「…おはよう」
 返ってきた挨拶に、笑う。
「来てくれてありがとね。そこ、座って」
 応接用の長椅子にカイを座らせて、アリアはシェラザードが置いていった茶器を拝借して 紅茶を淹れ始めた。
「アリア、俺はいいから…」
「時間なかった?忙しい?」
「いや、そうじゃなくて。俺はもう今日は仕事上がりだから問題ないけど、 アリアの方が忙しいだろ」
「ちょっとお茶する時間くらいあるよ。大丈夫」
 茶葉の蒸らし時間をはかるために用意された砂時計の砂が落ちきるのを待って、予備のカップに 紅茶を注ぐ。ついでに自分のカップにもお代わりを淹れて、アリアはカイの対面に腰かけた。
「シエラみたいに上手くは淹れられないけど、葉っぱが良いからちゃんと美味しいはずだよ」
 考えるように、わずかに間が空いて。
「…いただきます」
 カイがカップに手を伸ばした。
 それを見てアリアもカップを手に取る。一口飲んでみれば、ちゃんと美味しい。
「それで?アリア、俺に用事って…」
 自分で淹れた紅茶の味にまずまず満足して目を細めるアリアをよそに、カイは少し口をつけただけの カップをすぐテーブルに戻すと、ソファから背を浮かし、前のめりになってアリアに迫った。 その眉間には、微かにしわが。
 アリアは焦った。やはり伝言を頼んだのはまずかっただろうか。疲れた体を休める暇もなく 呼び出されては、不機嫌になっても無理はない。
「あ、あのね、カイ…」
 こうなったらとにかく一刻も早くカイを解放しよう、とアリアはソファを立ち上がると、 エディードの手紙を手にカイの隣に座った。
「これを見て欲しくて…」
「手紙?アリア宛の?」
「エディード様から。みんなによろしくって」
 表の宛名に怪訝そうな顔をするカイに、説明する。
 アリアの話を聞いてカイは、途端に息を吐くとぐったりしたようにソファにもたれかかった。
「なんだ…そんなことか…」
 その言い様に、今度はアリアの眉がぴくりと寄った。
「ごめん、言い方が悪かった。エディード様を貶めるつもりはなかったんだ。ただほっとして…」
「ほっとしたって…どうして?」
「アリアが、騎士団の人間を使って俺を呼び出すなんて今までなかっただろ。だから伝言を聞いて ものすごく驚いたんだ。一体何事かって、色々考えたりして」
 体を起こし、ずれた眼鏡を指で押し上げてカイがアリアの顔を覗き込むようにする。
「久しぶりに会ってみれば、なんだか元気のない顔をしてるし」
「私…そんな顔してる?」
 思わず自分の顔をぺたぺたと触りながらアリア。
 そんなアリアに、カイはため息混じりな表情で笑った。
「付き合い長いしな。わかるよ、アリアのことなら」
 アリアはわからなかった。カイが、こんな風にアリアを心配してくれていたことなど。
 付き合いの長さで言ったら、アリアだってカイと同じだ。それなのに、カイにわかることが アリアにはわからない。そのことがなんだか少し悔しい。
「これが原因って訳でもなさそうだな」
 手紙を一通り読んだカイが、もう一度アリアを下から見上げるように覗き込む。さっきよりも 近い距離で見つめられて、アリアは動揺した。
「げ、元気なくなんて、ないよ?」
「本当に?」
 ぶんぶん頷くアリアをじっと見つめて。
「…なら、そういうことにしておく」
 カイの顔が更に近づく。
(あ、睫毛長い…)
 至近距離で見る幼馴染の顔に、そんな場違いな感想を抱いてしまう。けれど困ったことに、 それじゃあ今この場面で何と言うべきなのか、まったく思い浮かばない。
 混乱するアリアの前髪をさらりとかき上げて、カイはこつんと額を合わせた。
「カ、カイ…?」
 触れ合ったそこに微かな温もりを残して、すぐに離れる。状況がつかめず混乱するアリアをよそに、 カイは何事もなかったような顔でテーブルを向くと、さっきアリアが淹れた紅茶を口元に運んだ。 その仕草の一つ一つをつい追いかけてしまう。カイから、目がそらせない。
 アリアがカイに触れることはよくあるが、カイの方からアリアに接触してくることは少ない。 それにあの瞬間のカイは、アリアが知っているいつものカイとはなんだか違ったような気がして。
(顔が熱い)
 おかしな自分を振り払うように思い切り、無理矢理にカイから顔をそらして、俯く。落ちかかる 髪の毛が表情をすべて隠してくれればいいのに、なんて考えながらアリアはくしゃりと 頭をかきまぜた。
「…そ、そういえば!」
 下を向いたままカイに背中を向けるようにしてソファを立つ。
「ギルって、今日も忙しいのかな?」
「ああ…そうか。ギルフォード様にも手紙を?」
「うん。そのつもりなんだけど…」
 ソファの後ろをわざわざぐるりと回り道して、アリアは初めに座っていた位置に戻った。 視線は微妙にカイからそらしたままで。
「セイグラムさんに伝言頼んであるから、時間があるようなら何かしら連絡くれるとは思うんだけど」
 昨日のセイグラムとのやりとりを、簡単にカイに説明する。
 あの時セイグラムに対して追及はしなかったが、だからといってギルフォードのことが 気になっていない訳ではない。それでとっさに訊いてみたのだが。
「申し訳ないけど、俺にもわからない」
 カイが首を振った。
「俺…というか、俺たち正騎士でも、下の方の団員には知らされないことも結構多いんだ。 仲間内であっても、情報なんてどこから漏れるかわからないからな。だから今、ギルフォード様が どんな情報を持っていて、何をしているのか。不在にしている理由は何なのか。それは俺も わからないんだ。セイグラム様なら色々と知っているんだろうが、アリアが訊いて駄目だったのなら、 おそらく俺が質問したとしても結果は同じだと思う」
 そこで、ふとカイが考えるような顔になる。
「仕事とは関係ないって、オルフ様は言ったんだろ?これはあくまで俺の勘なんだが…ギルフォード様、 王族の方の関係で忙しいんじゃないか?」
 目から鱗だった。その可能性は全く考えていなかった。というか、こんなことを言ったら ギルフォードに怒られそうなのだが、そもそもギルフォードが王子様だということをアリアは すっかり忘れていた。
 しかし、もし仮にカイの言う通りだったとすれば、フォルテやノア、カイが知らない事情が あってもおかしくはないのかもしれない。
「いずれにせよ、何かわかったらアリアに知らせるようにする」
「ありがとう、カイ」
「それじゃあ俺はそろそろ行くよ。お茶、ご馳走様。美味しかった」
 席を立つカイを見送りに、アリアも立ち上がる。追いかけて、見上げた瞬間さっきの出来事が 脳裏をよぎって、思わずさっと顔を背けてしまった。あきらかに挙動不審。流石に変に思われた だろうかと恐る恐る横目でカイを窺う。
 そんなアリアにカイは少しだけ笑って、けれど何も言わずに立ち去ろうとして。
「ああ、そうだ。エディード様に返事書くとき、俺からもよろしくって伝えてもらえるか?」
「う、うん。わかった」
 思い出したようにそれだけ言い残して、今度こそ部屋から出ていった。入れ替わりに、 席を外してもらっていたシェラザードはじめ女官たちが戻ってくる。
 部屋に入るなり、リィラがあらと首を傾げた。
「アリア様、お顔が赤いようですけれど…どこかお加減が?」
「ええっ!?い、いえ大丈夫です。何でもないです」
 わたわたと手を振る。そんな慌てた様子のアリアを見て、お互い顔を見合わせる女官たち。 それから一瞬の間を置いて。ざわざわざわっと、動揺が広がった。
「アリア様、カイ様とお二人で何のお話をされてたんですか?」
「な、何の話って…別に特別なことは何も…」
「お顔が赤いのって、カイ様とお話されていたからですか?」
「え、いやそれは…」
「やっぱりお二人はとっても仲がよろしいんですね」
「もうアリア様ってば、可愛らし過ぎです!」
 口々に、きゃっきゃと盛り上がる。楽しそうなのは良いことだが、その渦中にいるのが自分となると 話は別だ。どうすればいいかわからずアリアが困り果てていると、こほんと咳払いが聞こえた。 はっと皆が口をつぐむ。
「………」
 何も言わない。けれど背負ったオーラが、言葉以上に雄弁に物語っている。
「シエラ様…ご、ごめんなさい」
「謝罪するべき相手は私ではないでしょう?」
 シェラザードに諭されて、さっきまで楽しそうにアリアを囲んでいた女官たちはしゅんと うなだれた。
「ごめんなさい、アリア様」
 肩を落とす女官たちを仕事に戻らせて、シェラザードはやれやれといった風に息を吐いた。 改めてアリアに向き直り、頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。後できつく言っておきますので」
「あの、できれば…お手柔らかにしてあげて下さい。確かにああいう風にされちゃうと、 どうしていいかわからなくて困るんですけど…。でも、みんなが色々話しかけてくれるのは私、 すごく嬉しいので」
「…承知致しました」
 女官たちは遊びでここにいる訳ではなく、仕事としてアリアの元にいる。だから、 あまり口出しすべきでないということはアリアにもわかってはいるのだが。
「すみません、余計なこと言って」
「いいえ。アリア様にそのように言って頂けて、皆も喜ぶと思いますよ。もちろん私も」
 シェラザードの言葉にほっとした。
 息を吐いて、赤いと指摘された頬に手をやる。
(顔が赤いのは、カイと話をしてたからかって…正解だ)
 今でも思い出すだけで体温が上がるような心地がする。これまで、カイと一緒にいて、 こんなことなかったはずなのに。
(私、変だ…)






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