朝の支度を終えて、さあ今日も一日頑張ろう、というところで、相変わらずの賑やかなノックと共にリュカが顔を出した。
「お休み?」
「はい。アリア様に、申し訳ないですとラーイ様が」
 青竜の巫子としてのアリアの毎日は、竜の力を扱う訓練と国や巫子のこと、青の宮のことなどを学ぶための座学の授業、 そして執務の主に三つで構成されている。もっとも執務と言っても、今のアリアにできるのは各地の教会から上がってくる報告に 目を通すことくらいなのだが。
 実技の訓練がアスランとディスの二人によるのと同様、知識的な部分を学ぶ授業もまた、これまで担当していたラーイの他、 長く青の宮に勤める者たちがそれぞれ分担して担っていた。
 そして今日は昼までの時間、ラーイによる講義を受ける予定だったのだが。
「ラーイさん、何かあったのかな?」
 問いかけると、リュカは少し困ったような顔で首を傾げた。伝言を受けただけで、詳しい事情はリュカも聞いていないのだろう。
 そういえば今朝はなんだかいつもよりざわざわしているというか、落ち着かない雰囲気があったような気がする。もしかして、 ラーイが来られなくなったことと関係あるのだろうか。
「ざわざわ…していましたか?」
「あ、でもうるさかったとかじゃなくて。なんとなくそんな感じがした、ってだけなので…」
 シェラザードは優しいが、厳しい。特に仕事面においては、アリアが驚いてしまうくらい厳格な態度をとることがままある。 実際に騒音があったり、迷惑をした訳でもないのに、自分の迂闊な発言が原因で青の宮の女官たちが叱責を受けることは避けたかった。
 そんな思いから必死にフォローするアリアに、シェラザードが微笑んだ。そして、わかっていますというように一つ頷く。
「アリア様はお優しいですね」
「ぇえっ、いや、そんな…」
 思わぬ返しに、うろたえる。
「だって本当に、何かあったっていう訳じゃないですし…。むしろ私の気のせいかもって」
「ありがとうございます」
「………」
 シェラザードは優しくて、厳しくて、そして意外と頑固だ。
 あきらめて、アリアはおとなしくシェラザードの賛辞を受け取ることにした。
(そんなに立派な人間じゃないんだけどな、私…)
 褒められることは嬉しくて、照れ臭くて。しかしその反面で、どこか居心地の悪さにも似た感覚を、少しばかり覚えてしまう。


 育った環境のせいだろうか。あまり広すぎる場所よりも、少し手狭なくらいの方が落ち着く。だからアリアは、 広い立派な書庫の中、いつも隅の壁際にわざわざ椅子を移動させて本を読む。
 突然ぽっかりとできた空き時間。
 どう過ごそうかと悩んだ結果、アリアは書庫を訪れていた。今ではもうすっかりお馴染みになってしまったこの場所で、 今日アリアが手にしているのはヴォルフハルト国の歴史、とりわけ王城に関する本だ。青の宮のことを含め、成り立ちや建築の構造や、 様々なことが記されている。
(ここに来て結構経つけど。お城の中のことだってまだ、私は全然知らないんだ)
 思い出すのは昨日のことだ。一人バイオリンを弾く男の姿が、その音色が忘れられない。
 ラーイの授業がなくなって、本当はもう一度あの場所に行ってみようかと思った。しかし確かに同じ場所まで辿り着く自信もなく、 昨日の今日で、また挙動不審な姿を誰かに見られることになってしまったらと思いとどまったのだ。午後からはまた別の予定が 入っている。大したこともできない半人前の自分だが、せめて青竜の巫子としての役目をおろそかにすることはしたくなかった。
「やっぱり、ここにいたのか」
 不意に声をかけられて、アリアはびくりと顔を上げた。
「今日は何を読んでいるんだ?随分と集中していたようだが」
「アスランさん…」
 つかつかと寄ってきて、アスランがアリアの手元をのぞきこむ。
「…珍しいものを読んでいるな。課題でも出されたのか?」
 相変わらず、ちらりと見ただけで何の本なのかわかってしまうアスランに感心する。
「いや、そういう訳じゃないんですけど…」
「そうなのか?」
「………」
 不思議そうな顔。
 書庫に来ると、アスランとよく会う。
 よくわからないながらも難しそう、ということだけはよくわかる分厚い書物に目を落としつつ、何かあったらいつでも訊けと 言ってくれるアスランに最初は遠慮していたアリアだったが、何度も顔を合わせるうちに、段々とその言葉に甘えるように なっていった。
 以前にアスラン自身も言った通り、魔法以外の分野においても、アスランの方がアリアよりはるかに詳しい。物言いは厳しいが、 嫌な顔もせず付き合ってくれるアスランの存在は非常に心強かった。
 それに、なんとなくなのだが。困ったときや迷ったときに、質問したくなるというか、質問してもいいんじゃないかと思えるというか。 アリアはそんな風にアスランのことを感じていた。前にカイとのことで悩んでいたとき、真摯に答えを返してくれたことがあったから だろうか。
「…実、は」
 そんなアスランだったから、気が付けばアリアはぽつりとこぼしていた。
「昨日、道に迷いかけたんです、私」
「………またか」
「いやでも、迷いかけたってだけで、はっきり迷ったわけじゃあなくて…」
 結局どっちなんだと冷静に突っ込みを入れられて、一瞬沈黙する。そして。
「………道に迷いました………」
 認めたくはないが、客観的に見てあの状況は迷子だろう。ちょうどタイミング良く人に会わなかったら、完全に立ち往生していた。
「だ、だから、このお城のこともっと知りたいなって…」
 はあ、と深いため息が聞こえる。こめかみのあたりに手をやって、アスランは渋い顔をしていた。
「………確かに、ここの敷地は広大だ。王城に青の宮、青竜騎士団の詰め所や寮もあるし、来賓が宿泊する離れや、王族の寝所もある。 すぐには位置関係を把握できなくても無理はないだろう」
「え…?」
 てっきりまた厳しい言葉を浴びせられるだろうと思っていたアリアは思わず拍子抜けした。
 きょとんと見つめるアリアに、もう一度アスランがため息を吐く。
「僕が呆れているのは、そういう迷いやすい、どこだかわからない場所を一人でふらふら出歩いていることに対してだ。 お前は青竜の巫子なんだぞ。城内とはいえ、何かあったらどうする」
「何か、って…」
 大丈夫ですよと笑い飛ばそうとして、やめる。呆れていると言いながら、アスランのアメシストの瞳に宿るのは、 アリアを心から案じているような、そんな色だ。
「お前にもお前なりの考えがあるんだろうが。せめて、もう少し竜の力の使い方を覚えるまでは、あまり一人にならない方がいい」
 続けられたアスランの言葉に、内心で首を傾げる。
 巫子となってすぐの頃、オルフと約束したことがある。誰かを憎んだり、傷つけようと考えたりしないと。その意味は 後になって知った。
 攻撃的な意思は制御が難しい。それは魔法使いであっても、騎士であっても、ただの一般市民であっても変わらない。そして、 竜の巫子であっても。むしろ扱う力が大きい分、なおのこと暴走の危険は高くなる。だから竜の巫子は、絶対にその力を人に 向けてはいけないのだという。例え、何者かの害意から自身を守るためであっても。
「力で対抗するだけが身の守り方じゃない」
 アリアの疑問を感じたのだろうか。先回りするように、アスランが答える。
「危険を知らせて助けを求めたり、逃げ隠れたり。歴代の巫子の中には、ヴォルフハルト国内であればどこでも空間を移動できた者も いたそうだ」
「空間移動…」
 現実感がなく、ぴんとこない。
「そこまでできるようになれ、とは言わないが…」
 見ると、アスランもやや首を傾け、眉を寄せた表情をしていた。誰もができる訳ではないし、そもそも何代も前の巫子に そういう者がいた、と文献に記されていただけで実際にそれを見た訳でもないしな、とアリアをフォローしているのか独り言なのか よくわからないことをつぶやく。
「とにかく。少しは用心しろ。…心配させるな」
 言い放った後でふい、と視線をそらされた。そのまま背中を向けられる。
 アスランは通りすがりに何冊か本を抜き取ると、それらを手に、書庫に据え付けられた長机の角の席に座った。 アリアがいつも同じ隅の壁際で本を読むのと同じように、アスランもたいていその場所に座る。もっと真ん中に座ればいいのにと 前に一度アスランに言ってみたことがあるが、なぜかひどく不機嫌そうにちらりと一瞥されてしまった。以降、アリアはこの話題には 触れないようにしている。アスランにも色々とあるのだろう。
 もうこちらに完全に興味を失ってしまったような横顔を見つめる。アスランの、少しきつめな印象を受ける顔。そこに若干の赤みが さしていることにアリアは気付いた。
 アスランは振り向かない。アリアの視線に気が付いているのだろうが、それでも頑なに本をにらんだまま。
 そんなアスランの横顔がなんだか嬉しくて、アスランに気付かれないようこっそりとアリアは笑った。






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