「青竜の巫子として、一番基本の職務は?」
「ヴォルフハルト国内の大地や森や水が、どんな状況にあるのかを把握すること」
「その通り」
ではやってみて下さい、と促されて、アリアは大きく息を吸って、吐いて、それから隣に立つオルフの手をきゅっと握った。
目を閉じて集中する。
青き竜がその身を大地に変えた、その上に作られた国。それがヴォルフハルト国だ。つまるところ、
国土はイコール青竜ヴォルフハルトであり、その具現たるオルフとも同一であると言える。ゆえに青竜の巫子は青き竜の君、
オルフを通じて、国が今どういった状況にあるのか感じ取ることができるのだという。そして、そうやって国土を管理することが
竜の巫子として第一に為すべきことであると教わったのは、十日前のこと。アリアが新しい青竜の巫子として人々の前に披露されて、
今日で十日になる。
無事にお披露目を終えたとはいえ、それですぐさま一人前という訳ではなく。実のところお披露目前とあまり変わらず、
日々勉強だったりする。
(オルフの力を感じて…それを、逆に辿る)
言うは易し、行うは難し、だ。理屈を頭で理解することはできても、なかなか思うようにいかない。
まずはこの青の宮を『見る』ところから、と始めたものの、それすらアリアは未だうまくいかないでいた。
「……リア、アリアっ!」
間近で呼ばれて、はっとアリアは我に返った。さっきまで手をつないでいたはずのオルフがいつのまにか、
アリアを抱きしめるようにして見上げている。
「オルフ…?」
「少し休憩しよう、アリア。無理はいけない」
咄嗟に状況が理解できず、瞬く。瞬間、くらりとめまいに襲われた。
「………っ」
オルフに支えられてなんとか部屋の隅まで行き、椅子に座り込む。
「気付いていないかもしれないけれど、随分長い時間集中していたから」
言われて初めて、アリアは自分が疲れていることに気がついた。長い時間とオルフは言ったが、
訓練を初めてから一体どれだけ経ったのだろう。時間の感覚がまったくない。
「今日はここまでにいたしましょうか」
座るアリアを見下ろすように、降ってきた声にアリアは顔を上げた。
「ディスさん…。私、大丈夫です。まだできます」
「駄目です。巫子様はこの国にとって大切な方なのですから、もし万が一、何かあったら大変だ」
「………すみません」
柔らかい微笑みを浮かべたディスの瞳に、それ以上何も言えなくなる。
「それでは、申し訳ありませんが、私は先に職務に戻らせて頂きます。巫子様、御前失礼します」
一礼して、踵を返す。扉の向こうに消えていくディスの背中。その後ろ姿を隠そうとするようにバタリと、静かな室内に、
扉の閉じる音が大きく響いた。
「あーあ、駄目だなぁ私…」
辺りに自分以外誰もいないことを確かめて、それからアリアはこっそりため息をついた。
ひとつうまくいったかと思うと、またひとつ思うようにいかないことが現れる。浮いたり沈んだり、一喜一憂が実に忙しい毎日。
オルフやシェラザードに相談すれば、アリアは充分頑張っていると多分言うのだろう。だからこそアリアは、今は一人になりたかった。
回廊を外れて、人気のない方、まだ足を踏み入れたことのない方へと分け入っていく。
「みんな優しいから…」
小さく独り言つ。
「何かあったら大変、か」
力の扱い方に関してこれまでアスランに師事してきたアリアだったが、今は他にもう一人、分担してその役目を担っていた。
宮廷魔法使い筆頭は決して楽な役職ではない。アスラン自身は問題ないと言い張っていたが、長い目で見てアスラン一人でアリアを
教えるのは無理が出てくるだろうという結論となり、今の体制となった。
そしてアリアの教育係として新しく選び出されたのが、さっきまで共にいたディスである。アスラン同様に宮廷魔法使いを務めており、
若くして今の地位まで登りつめた優秀な人物らしい。もっとも若い、と言ってもおそらく三十歳は超えているだろう。アスランが、
あの年齢で宮廷魔法使い筆頭を務めていることの方が異常事態なのだ。
優しい人なのだろう。アリアのことをいつも気遣ってくれる。アリアが思うような成果を出せなくて焦っているとき、
無理をするなと言ってくれる。
なぜだろう。
そうやってディスに言葉をかけられる度、微笑みを向けられる度、アリアの心に澱のように淀み、積もる何かがある。
正体のわからない何か。
そんな自分に、また少し落ち込む。
「………?」
ふと、アリアは足を止めた。
風に乗って、ほんのわずか耳に届いた音。おそらく気付かない人間の方が多いだろう。しかしアリアにはわかった、その音は。
「バイオリン…?」
細く微かな、しかし、それは確かに楽の音だった。
その場に立ち止まったまま耳を澄ましてみる。
「リュカの音…に、ちょっと似てる…?」
リュカがバイオリンを練習しているのだろうかと考えて、すぐに自分で否定する。似ているが、違う。音の質ではなく雰囲気が、
なんとなくあのリュカとは違うように思えた。
ふらりと、引き寄せられるように一歩、アリアは足を踏み出した。音が流れてくる方向へと、さまようような足取りで歩く。
舗装を外れ、土の上を歩いて、だいぶ近く、確かに旋律を聞き取ることができるところまで近付いたときには、アリアは完全に
自分の現在地を見失っていた。見覚えのない風景。手入れされた庭木というより、自生しているに近い感じの木々がアリアの行く手を
阻もうとするかのように枝を伸ばしている。ここまでアリアが歩いてきた道も整えられたものではなかったが、今、目の前にあるのは
そもそも道ですらない。あえて言うなら獣道、と言うことができそうだが、いずれにせよ人間が歩くためのものではなかった。
その先から、バイオリンの音は聞こえてくる。
少し考えて、それからアリアは再び歩き始めた。なるべく枝葉のまばらな場所を選んで進む。
「どうしてこんなに必死になってるんだろう、私…」
答えはどこからも返ってこない。アリア自身にもわからない。それでも、足は止まらない。
ほどなくして、抜けた。ひらける視界。背の高い鉄柵が、アリアのいるこちら側と向こう側とを隔てている。その向こう側に、いた。
姿勢がよく、すらりとした立ち姿の男。薄い色の髪が陽光を受けてきらきら光る。城の敷地内にあるにしては小さく見える二階建ての
建物の、一階の窓は開け放たれ、その傍で地面を踏みしめる両足はなぜか裸足で。もしかして、窓から庭に出たのだろうかと
アリアは思う。子供の頃、親に気付かれないようこっそりと、窓から抜け出して遊んでいたのを思い出して、思わずくすりと笑った。
その声が届いたのだろうか。
「誰かいるのか?」
流れる動作で弓を弾いていた手が止まる。伏せられていた目が開き、すぐに、緑を背に立つアリアをとらえた。
深い色の眼差しがアリアを射抜く。
瞬間、男が息をのんだ、ような気がした。
「………」
何事かを口にするが、それは声にならず。
ただ目をそらすことができない。それほどまでに、強い。
「………様?外に出ていらっしゃるのですか?」
飛び込んできた誰かの声に、びくりと震える。男が部屋を振り返った。外れる視線。声は男の背後の部屋の中から聞こえた。
声の主は、すぐにこちらを見つけるだろう。
考えるより先にアリアは踵を返していた。ついさっき抜けてきたばかりの木の群れに飛び込む。
走って、走って、自分がどちらから来たのかもわからないままとにかく走って。ようやく道に出たときには息も上がり、
肩で呼吸する状態だった。心臓がどきどきとうるさい。
「はぁ、はぁ…」
なんとか地面にへたり込まないようにするのが精一杯だ。
しばらくの間、そうして呼吸を整える。
「…アリア様?」
後ろから突然名前を呼ばれて、落ち着きかけていた心臓がまた飛び跳ねた。
振り返れば、怪訝そうな顔をした女官姿が一つ。アリア付きではないが、何度か目にしたことのある顔だ。
「何をしてらっしゃるのですか?こんなところで、お一人で」
「あ、あのちょっと、散歩を…」
嘘ではないが、決して正解ではない。そんな気まずさから、あははと誤魔化し笑いを浮かべてみる。
「お散歩、ですか…」
「そうなんです。気分転換をしようと思って」
あはははは、と。
我ながら実に無理のある誤魔化しだとは思ったが、それ以上どうすることもできず。そのまましばし、
辺りにはアリアの渇いた笑いだけが響き渡っていた。
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