王都に来てから、時間の流れが速くなったようにアリアは思う。契約の儀を行って、正式に青竜の巫子になったのが ついこの前だったはずなのに、もう明日は巫子のお披露目をする日だ。約一月、あっという間だった。
「眠れない…」
 竜の力の扱い方は、なんとなくだがわかるようになってきた。女官たちに着せ替え人形よろしくされながら、 明日の衣装の準備も終わった。どんなスケジュールで何をするのかも教えてもらった。出来る限りの準備をして、 あとは万全の体調でことに臨むだけなのに。なんだか眠れなかった。
 ベッドに入って目を閉じて、なんとか眠りにつこうと試みてはいるのだが、一向に眠気が襲ってこないのだ。
 はぁ、と一つ息をついて、アリアはおもむろにベッドから抜け出した。少し考えて、廊下へ続く扉ではなくバルコニーの方へと 足を向ける。
 雲一つない綺麗な夜空がどこまでも広がっている。吸い込まれそうな漆黒にちりばめられた無数の星のきらめきと、 冴え冴えとした月明かり。穏やかな夜だ。
「………眠れないのか?」
 手すりにもたれてぼんやりと空を眺めていたアリアは、唐突にかけられた声にびくりと体を震わせた。驚きに一瞬、 きゅっと縮んだ心臓が激しく音をたてる。
「こっちだこっち」
 声の主がどこにいるのかときょろきょろしていると、下の方から呼ばれた。
 身を乗り出して辺りを探すアリアの目に、大きな木の幹を背中にこちらを見上げている人影が映る。その人影が、アリアに向けて 挨拶するように片手をあげた。
「ギル…」
「よう、久しぶり」
 本当に久しぶりだった。結局、あの日から今日までアリアはギルフォードと会話はおろか、顔を会わせることすらしていない。
「こんな夜中に、一人でぼうっとしてたら危ないぞ」
「…ギルこそ、そんなところで何してるの?こんな夜中に一人で、危ないんじゃないの?」
 ギルフォードの言葉をそのまま返してやる。確かになと、わずかに自嘲が混じったような雰囲気でギルフォードが苦笑した。
「………もしかしたらアリアが、そこから顔を出すんじゃないかと思ってな」
「どうしてそんなこと…」
「謝ろうと思ったんだ」
 明るい夜だが、それでも月と星の明かりだけではこれだけ距離がある相手の顔をはっきりと見ることはできない。だからアリアは、 ギルフォードがどんな表情で、どんな思いでそこに立っているのかわからなかった。
「悪かった。この前のこと…少しやりすぎた。反省してる」
「………なんで夜中に、しかも窓の外から、そんなことを言うのよ」
「本当は何度も会いに行こうと思ったんだ。だけど、まぁ……情けない話だが、どうにも気まずくてな。どうしても駄目だった。 かといってこのまま話もできない状態が続くのもきついし、どうしたものかと悩みに悩んで。で、今に至るというわけだ。」
 やれやれと肩をすくめる仕草は、自分自身に対する呆れを表すものだろうか。
「…もしかして今日まで、毎晩ここに来てたってことはないわよね?」
「いや流石にそれはない。ここまで来たのは今日だけだ」
 即答で否定するギルフォード。いくらなんでもそれやったら少し怖いだろ、などと苦笑する。
 数日ぶりに話をするギルフォードは前とまったく変わらぬ様子で。変わらず、こうしてギルフォードと話ができることに、 アリアは思わずほっとした。
「…ねぇギル。私ね、ギルが好き」
 ギルフォードと会わなくなって。なるべく気にしないようにしていたけれど、やはり寂しかった。その感情はアリアにとって 変えることのできない事実で。なぜこんなにも寂しく思うのかと考えたときに、行きついた答えがそれだった。
「男とか女とか、そんなの関係なくて。ずっと今のまま一緒にいたい。ギルとは、対等でいたいんだ」
 友として、肩を並べて。
 ギルフォードとならきっと、そんな風に歩いていける。ギルフォードは、かつて女だからというだけの理由でアリアから 離れて行った幼馴染たちとは違う。そう思える人だからこそアリアはギルフォードが好きで、だから、会えなくなれば寂しい。
「もう怒ってないから。だから、明日から元通り」
「………ああ、そうだな」
 ギルフォードがそう言って頷くまでには、なぜか少しの間があって。
 しかしアリアは、そのことをあえて追及しようとはしなかった。元通りでいいとギルフォードは言ってくれた。 それだけでいいじゃないかと、そう思ったのだ。
「…明日、早いんだろ?もう寝た方がいい。俺も戻るから」
「うん、そうする」
 おそらく精神的な要因によるものなのだろう。ほんの少し前までずっと寝付けずにいたはずなのに、今なら、 よく眠ることができそうだ。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみギル。また明日、ね」
 また明日、の言葉に思いを込めて。
 アリアはギルフォードにばいばい、と手を振った。


「おはよう、シエラ」
「おはようございます」
 睡眠はきっと量よりも質の方が大事なんだろうと、朝一番にそんなことを考えた。昨夜は眠りについたのが遅かったせいで、 いつもよりも睡眠時間が短いはずなのに、驚くほどに寝覚めがいい。
「なんだか今朝は、すっきりとしたお顔をされていますね」
「見てわかるくらい違います?」
「ええ、わかりますよ。今日はアリア様を国の皆にお披露目する日ですから、緊張してらっしゃるのではないかと案じていたのですが。 お元気そうで安心しました」
 シェラザードはそう言って微笑んだが、アリアとしてはなんだか照れくさいような心地だった。そんなにわかりやすいだろうかと 自分の顔をあちこち触ってみる。そんなアリアの様子を見て、シェラザードがまた笑う。
「アリア様は、本当にお可愛らしいですね」
「ぇえっ!?どうして突然そんな…」
 自分なんかよりも、その賛辞を受けるにふさわしい人はいくらでもいるだろうとアリアは思う。来て、見て、 初めてわかったことだが、王都には美人が多い。行き交う人の絶対量が多いからそう感じるだけかもしれないが、いずれにせよ、 綺麗だったり可愛かったりする人を目撃する機会が多いことは確かで。しかも城の敷地内では、その傾向がより一層強まるのだ。
「アリア様は心根の可愛らしい方ですから。きっと内面から魅力が溢れだしているのでしょうね」
 なんだ外見でなく中身の話かと。それでも充分に身に余る賛辞なのだが、ひとまずほっと落ち着く。しかしそんなアリアの思考を 読んだかのようにシェラザードが一言、付け足した。
「もちろん、お顔立ちもとても可愛らしいと思いますよ」
「………シエラに言われてもなぁ………」
 シェラザードだって、王都の美人たちの一人なのだ。
「アリア様は、私たちの誇るべき主ですから。自信を持って下さい」
「うーん…」
 どう考えても、多分に贔屓目が入っているような気がする。
「皆にアリア様の素晴らしさが伝わるよう、私たちも尽力致しますから」
 シェラザードの言葉に賛同するように、あちらこちらから女官たちの声が上がった。
「そうですよアリア様」
「私たちはアリア様が一番だって思ってます」
「今日は私、アリア様の可愛らしさを最大限に引き出せるよう、精一杯頑張ります」
「楽しみにしてて下さいね」
 仕事の手は休めずに、女官たちがさえずる。
 その妙な迫力に圧倒されて、アリアはただ、お願いしますとやや引きつりながら頷くしかなかった。


 普段は明るすぎるほどに明るい女官たちだが、その能力は確かなものなのだとこんなときに実感する。
 アリアよりも背の高い姿見の前には、いつもの自分と本当に同一人物なのかと疑いたくなるような、華やかに着飾った少女が 立っていた。
「アリア様、いかがですか?」
 アリアの肩越しに、リィラが誇らしげに胸を張るのが鏡に映って見える。
 サイズ合わせの際に何度か目にしたことのある衣装であったが、こうして化粧や髪型など、すべて整えるとやはり変わる。
「すごい、綺麗です。色合いも可愛い」
「そうですよ。アリア様は綺麗で可愛らしいんです。わかっていただけて嬉しいです」
「いや私じゃなくて、この衣装が…」
 訂正しようとするアリアの言葉など耳に入らない様子のリィラ。そんなリィラや、他の女官たちの顔を見ながら段々と、 アリアの中でもういいやという思いが頭をもたげてきた。あきらめる気持ちが半分と、皆が喜んでくれるならいいかという 気持ちがもう半分。
(みんな、褒めてくれてるんだし。………恥ずかしいけど)
 あとは、あえて反論しない方が早くこの話題から解放されるのではないかという、打算的な思いがほんの少しだ。
「アリア様。入ってもいいですか?」
 扉の向こう側からリュカの声がかかる。
 どうしますかと目で問うてくるシェラザードに頷くと、扉に一番近い場所にいた女官が動いた。見知った少年を出迎えるべく 扉を開けた女官が、その態勢のまま固まる。
「まぁ…!」
 その一言を発したきり、後の言葉が続かない。
「何をしているの?」
「あ、シエラ様…申し訳ありません」
 シェラザードの声に我に返った様子の女官が、戸惑ったように扉の向こうとシェラザードとを見比べる。
「リュカがどうかしたの?」
「いえ、リュカではなくて、その…アスラン様が…」
「アスラン様?」
「はい。宮廷魔法使い筆頭、アスラン・バロックワーズ様がお出でです。リュカと一緒に…」
「………」
 女官の反応は無理もないとアリアは思った。アリア自身も驚いている。訪問者がリュカだけならばそう珍しいことではないが、 アスランが一緒となると、話はまったく別物になる。アスランがアリアの部屋を訪れるなど初めてのことではないだろうか。 なぜ、なんのために。疑問は尽きないが、いつまでも廊下で待たせたままにする訳にもいかない。アリアは慌てて、 おかしな取り合わせの二人組に部屋に入ってもらうようお願いした。
「失礼します。…あ、アリア様すごい!綺麗です」
 アリアの姿を目にとめるや否や、リュカが駆け寄ってくる。いつもならばたしなめられるだろう落ち着きのないその行動も、 素直な賛辞と共にあるためか、女官たちは笑みすら浮かべて容認している。シェラザードもまた、やれやれという顔をしながらも 咎めようとはしない。
 そんな和やかな空気が、一瞬の後にきり、と引き締まる。
「………」
 緊張した雰囲気の元凶であるアスランはしかし、部屋に足を踏み入れたきり動かず、喋らず、惚けたように立ち尽くしていた。
「あの………アスランさん?」
 沈黙に耐えきれず、アリアが恐る恐る声をかける。
 そこでようやくアスランははっとしたように何度か瞬きをすると、ごほんごほんといささかわざとらしい咳払いを落とした。 そして、憎まれ口を一つ。
「馬子にも衣装とはこのことか…」
「…それを言うためにわざわざ来たんですか」
 流石にむっとする。
「い、いや、そうじゃない。話があって来たんだ。今日のことで」
 乱れていない襟元を整えて、咳払いをもう一つ。アスランがいつもの冷静な、宮廷魔法使い筆頭の顔になる。
「今日、この日のために、これまで僕はお前に魔法を教えてきた。初めはどうなることかと思ったが…」
 ふっと、ため息に似た吐息がアスランの口からこぼれる。
 この直前のタイミングで、部屋を訪れてまでアスランは、一体何を言おうとしているのか。不安が顔に出ていたのだろう。 アスランは、アリアに向けて微かに笑った。
「そんな顔をするな。大丈夫だと、そう言いに来たんだ。今のお前なら問題ないだろう。僕が保証する」
「アスランさん…」
「思い切りやってこい。僕も近くに控えているから、もしまた暴走するようなことがあってもすぐに鎮めてやる。だから安心しろ」
 それは、アリアを励まそうというアスランなりの気遣いなのだろうか。
 アスランの真意はアリアにはわからない。わからないが。
「ありがとうございます」
 アリアは嬉しかった。
「私、頑張ります。見てて下さい」
「ああ。…それじゃあ、僕は先に行っている」
「もう行くんですか?来たばっかりなのに…」
「僕にも仕事があるからな」
 素っ気ないもの言いでそれだけを言い捨てると、アスランはくるりとアリアに背を向けた。そのまま振り返ることなく歩いていき、 部屋を出る直前でふと足を止めて。
「……さっきは、あんなことを言ったが」
「………?」
「服、似合っている。その…綺麗で、驚いた」
「…ぇえっ!?」
 らしくない爆弾を投下して、アスランは今度こそ、足早に去っていった。


 息を吸って、吐いて、大きく深呼吸する。
「緊張しますか?巫子様」
「少しだけ、緊張してます。でも大丈夫ですよ。自信を持てって、みんなが応援してくれましたから」
 女官たちが、シェラザードが、そしてアスランが。
 ずっと魔法を教えてくれたアスランのお墨付きをもらえたことは、アリアにとって大きかった。
「そうですか。それは、先を越されてしまいましたね」
 残念がっているような、喜んでいるような、なんとも判別のつかない顔でラーイが笑う。
「巫子様。私からも、応援の言葉を送らせて下さい」
 ね、と小さく首を傾げた、ラーイの髪がさらりと揺れる。
「およそ一月の間ずっと見てきましたが、巫子様はよく頑張っていたと思いますよ。あなたが新しい青竜の巫子だと、 皆に胸を張って紹介することができる」
「ラーイさんが色々と教えてくれたおかげです」
「頑張ったのはあなたですよ。全部あなたの力だ。だから、きっと大丈夫。うまくいきますよ」
「はい!」
 大きく頷いて返したところで、アリアの名前が呼ばれた。
 振り返ると、アリアと同様に儀礼的な衣装に身を包み、ギルフォードやその他数名の共を連れたオルフが、 まっすぐにアリアを見つめている。
「アリア、行こう」
 差し出されたオルフの手のひら。そこに迷わず自らの手を重ねる。
 そしてアリアは、一歩を踏み出した。






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