「今日は随分とご機嫌がよろしいのですね」
後ろから声をかけられて、アリアははっと振り返った。
扉の前に控えて立つシェラザードが微かに目を細めて笑っている。
「何か良いことがありましたか?」
「悩んでいたことが一つ、解決したんです。それで機嫌がよく見えるのかも」
無意識にはしゃいでいたところを目撃されてしまった気恥ずかしさから、誤魔化すようにアリアは早口に答えた。
カイと話をして、考えを聞くことができて、アリアの中で完全に迷いが吹っ切れた。
カイの言動に一部ひっかかるところがないではなかったが、それを理由にまた距離を置こうとは思わなかった。
アリアはカイの傍にいたい。カイも、傍にいていいと言ってくれている。それだけでいいではないかと、今は思う。
「それはよかったです。最近のアリア様は、いつも何か考え事をされている様子でしたから。この前だって、階段から落ちたりして」
「うっ…」
何かにつけてシェラザードは、あの時のことを口にする。さばさばとした性格のシェラザードにしては珍しく根に持っているらしい。
アリアとしても、心配をかけてしまった自覚があるので何を言われても言い返すことができない。
「ごめんなさい…」
その度に、こうして謝るだけだ。
「これからは気をつけます」
「是非、よろしくお願い致します」
素直に頭を下げるアリアにくすくす笑いながら、シェラザードがよろしい、とばかりに一つ頷く。
「ところで、アリア様。お伺いしたいことがあるのですが…」
つい先ほどまでの和やかな笑顔のままで、しかし瞳の奥に、ひどく真剣な光を湛えて。そのちぐはぐな態度に内心で首を捻りつつ、
アリアはシェラザードを見上げた。
「アリア様は、カイ様をお好きなのですか?」
「…好きですよ?」
シェラザードの質問の意図がわからないせいで、語尾が疑問形になってしまった。
「でも、どうしてですか?」
「…お二人は、とても仲が良く見えましたので…」
「仲良いですよ。カイと私は幼馴染ですから。あれ、この話、前にもしましたよね?」
いつだったかは忘れたが、確かシェラザードに話をしたことがあったような気がする。それともアリアの思い違いだろうか。
「ええ。幼馴染なのだと、そのことはお聞きしました」
何か難しいことを考えているような、ひどく微妙な顔をしてシェラザードが頷く。
「………アリア様とカイ様は幼馴染で、それだけですか?」
「それだけ…」
そこまで聞いて、アリアはようやくシェラザードの言わんとするところを理解した。
「もしかして、恋人なのかって質問されてます?」
もしかしなくともそのようだ。
「違いますよ。そういうのじゃないです。カイは私にとって、家族みたいなものなんです」
血のつながった家族はすべて失ってしまった。アリアの両親とアリアと、共通する思い出を持っている近しい人はカイだけだった。
「他にも幼馴染はいたし、教会で一緒に暮らしてた子たちとか、みんなすごく好きだけど。やっぱりカイは、私にとって特別なんです。
ずっと一緒だったからかな…」
むしろ、恋人というよりも特別かもしれないとアリアは思う。
家族と離れ離れになる悲しみをアリアは知っている。だからこそ、カイと一緒にいたいと、切実に思うのだ。
「そう、ですか…」
シェラザードの真剣な様子が気になった。しかしアリアが何か追及しようとするより早く、シェラザードは胸に手を当て身を屈め、
自分よりも低いところにあるアリアの顔を覗き込むように見上げてきた。
「アリア様」
「は、はい…」
じっ、と見つめられて、アリアは穴が開いてしまいそうな心地になる。
「何かあったら、必ず私に言って下さい。私はアリア様のためにここにいます。役目や仕事だからというだけでなく、
私自身の意思で、アリア様のお力になりたいと思っています。だからアリア様、どうか、もっと私を頼って下さい」
強い思いの込められた眼差し。
それが一体、何に起因するものであるのかアリアにはわからない。わからないが、それがアリアのためのものである、
ということだけはわかった。
「アリア、入るよ」
唐突に割って入ったその声に、一つ頷いた後に続けようとしたシェラザードへ問いかける言葉をアリアは飲み込んだ。
「久しぶりだね。アリア」
気配の一つも感じさせずに、いつの間にかすぐそこに立っていたオルフが微笑む。
本当に、随分と久しぶりだった。契約の儀以来、アリアとオルフは片手で数えられる程度しか顔を合わせていない。
アリアも忙しかったが、それ以上にオルフの方がいつも忙しそうだった。
オルフの姿を認めたシェラザードが、さっとその場で礼の形をとる。
「今日はアリアを迎えに来たんだ」
「私を?迎えにって…どこへ?」
「アスランのところへ」
簡潔な回答に、アリアの頭の中が疑問符で一杯になる。
「そろそろ時間だ。行こう」
有無を言う暇もなくオルフに手を引かれて、事態を理解できないままにアリアは部屋から連れ出されていった。
「今日から実践的な訓練に入る」
いつもアスランから講義を受けている部屋とは別の、広い部屋にアリアはいた。とても簡素な、
飾りっけどころか机や椅子など最低限の調度品すらない、ただ広いだけの部屋。明かり取りの窓がないのに室内が明るいのは
魔法の力によるものだろうか。
「実践的な訓練、ですか…?」
「ああ。今まで魔法とはどんなものか、基本的な部分を教えてきたが、最終目標はそこではないからな」
最終目標という言葉を聞いて、アリアは傍らを見下ろした。
なぜ今日に限ってオルフが迎えに来たのかようやくわかった。
「実際に竜の力を扱う訓練に移る」
アスランに魔法を教わるようになって三週間。ようやくここまできたのかという思いと、大丈夫だろうかという不安とで、
胸がどきどきする。
「この部屋は魔法に耐性があるように様々な仕掛けが施されている。他の場所よりは、
周りに迷惑がかかりにくい造りになっているから安心していい」
素直に安心できない発言があったような気もしたが、なんとかそれらを頭から追い出して、アリアは深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「では始めよう。オルフ様も、よろしくお願いします」
お願いしますと口にしながらも、アスランは頭を下げる気配もない。そんな上から目線のお願いだったが、
オルフはまったく気にした様子もなく、にこりと笑って頷いた。
アリアとオルフと、二人にそれぞれ交互に視線をやってから、アスランはおもむろに何事かをつぶやいた。
アスランの、かざした右手のひらの上で空間が歪む。歪みは段々と大きくなっていき、やがて手のひらに収まりきらない大きさに
なったところで、アリアはその歪みの正体が水であることに気がついた。絶えず動き流れる水はその勢いのまま透明な鱗を持つ
蛇の姿へと転じ、アスランの手から放たれた。アリアのすぐ横をかすめるように駆けた蛇はぐるりと室内を一周すると、
おとなしくアスランの元へと戻り、球体へとその身を変えていく。巨大な水蛇の体をすべて飲み込んだその水球は、
アスランが右手を握る動作に合わせてぎゅっと収縮し、そして霧散した。
「………」
いきなりのパフォーマンスに、アリアは唖然とした。
(これはちょっと…)
難易度が上がりすぎなんじゃないかという、アリアの心の声を呼んだかのようにアスランが口を開く。
「同じことをやれというわけじゃない」
その一言にアリアはほっと胸を撫で下ろした。
「だが今のも、これまでやってきたことと基本は同じだ。最初から僕と同じようにやれとは言わないが、
最終的にはあれくらいのことはできるようになってもらう」
浮上しかけたところを突き落とされた気分だった。
なにしろ、最終的にといってもあと何日もないのだ。
「大丈夫」
ふと、アリアの左手がきゅっと握られる。
「アリアならできるよ。大丈夫」
金色の瞳がアリアを見上げる。無垢な幼子のようでいて、海のようにどこまでも深くもある眼差し。
オルフが大丈夫と言うのであれば、きっと大丈夫なのだろうと、そう思えてくるのが不思議だった。
「力や形、働きを制御するための訓練だ。しっかりと身につけておかないと、力の暴走を招くことにもつながる。
そのことを覚えておけ」
つながったオルフの手を握り返して、アリアは大きく一つ頷いた。
空気中の水分を集めるところまでは、アリアが驚くほどに呆気なくうまくいった。
一番初めに教わった明かりを作り出す魔法と感覚が似ていたということと、アスランいわく水の要素を扱うのに適した条件が
様々そろっているのが大きいらしい。
水の性を持つ青き竜の国。
その竜の力を託された巫子。
もっともアリアとしては、自分が今、竜の力を使っているのだという自覚はあまりないのだが。
それに、問題はそこから先だった。
集まった水の粒子たちを、アスランがやってみせたように意のままに動かすことがどうしてもできないのだ。
「心配いらないよ。アリアはちゃんとできてる。その調子」
その方が力を使いやすいからということで、アリアの手はオルフとつながったままだ。励ますように、オルフが手を握る。
アリアは自分の目前に浮かぶ透明な水球をにらみつけた。さっきからまったくアリアの言うことを聞こうとしないそれが、
アリアをからかうようにぶるりと身震いしたのを見て、かちんときた。
(何なのよ…っ!)
苛々とした気持ちを思い切りぶつける。
刹那。
水が、弾けた。
嵐のような暴風を伴って、つい先ほどまで水球であったものの欠片が四方を駆けまわる。
勢いよく壁にぶつかる度に火花が散るのが見えた。
「な、何っ…!?」
風がアリアの髪を、服を巻き込んで踊る。盛大に火花を散らして戻ってきた荒れ狂う欠片の一つがアリアをめがけて接近し。
思わず目を閉じたアリアの手が強く引かれる。よろけたアリアの体が、庇うように抱きしめられた。
「目を開けろ」
アスランの声がする。言われた通りにアリアが目を開けると、思いがけない至近距離にアスランの顔があった。
咄嗟に身を離そうとするアリアを抱く腕に力が込められて、アスランの更に近くまで引きよせられる。
「危ないから離れるな。このまま、僕のやることを見ていろ」
色々動揺して、アリアはただ頷くしかできない。そんなアリアを見てから、アスランはひたと正面を見据えた。
風がうなる。
反射的に目を閉じてしまいそうになるアリアの前にオルフが立った。途端に、ふっと周囲から感じる圧迫感が薄くなる。
「オルフ…」
相変わらず手を握ったまま、オルフがアリアを見上げて頷く。そしてアスランの視線の先に目をやるのを見て、
アリアは慌ててそれに倣った。
アスランの唇が音を紡ぐ。アスランと密着した状態のアリアには確かにその音が聞こえているのに、
それが何という言葉であるのか理解することができない。しかし、アスランが音を紡ぎ出す度に、
なだめられるように段々と嵐が鎮まっていくのはアリアにもわかった。先ほどまでの勢いを失った風たちは一陣また一陣と、
アスランに従うように一か所に集っていく。やがて、すべての風は一つとなり元の水球へと姿を転じると、
そのまま空気中に溶けて消えた。
ふぅ、とアスランが息をつく。そして、はっと思い出したようにアリアから離れた。
「け、怪我はないな?」
アスランの問いかけにこくりと頷く。
「今のは…?」
「暴走だ」
返ってきたのは、いたって簡潔な答えだった。
「何をするにも適切な力加減というものがある。グラスに入りきらないほどの水を注ぎ入れたときに、溢れ出てしまうのと同じだ。
力の加減を見誤れば今のようになる」
「暴走……」
させてしまったのか。自分が。
荒れ狂う嵐の一片が向かってきた瞬間を思い出して、アリアの背中を悪寒が走る。
怖かった。
アスランとオルフが庇ってくれなかったら、今頃、アリアは無事では済まなかったかもしれない。しかしそれ以上に、
二人を傷つけてしまうところだったという事実が、アリアは恐ろしかった。
「アリア」
名前を呼ばれて、そっと頬に触れられて、アリアは我に返った。アリアよりも低い位置から背伸びするように手を伸ばして、
両手で頬に触れているオルフと目が合う。
「アリア、大丈夫。落ち着いて」
大丈夫、大丈夫と、言い聞かせるように何度もオルフが唱える。
「オルフ、私…」
「怖い?」
「………」
こんな弱音を素直に伝えてしまっていいものか。少し悩んで、躊躇って。それからアリアは、無言で頷いた。
そんなアリアに、オルフはふわりと微笑んだ。
「竜の力を使う怖さを知ることは、とても大切なことだよ。今のアリアはその恐ろしさを知っている。だから、アリアは大丈夫」
「最初からすべてうまくいくなんて元から考えてはいない。この程度の暴走は想定内だ。
だから、わざわざこの部屋に呼んだんだからな」
オルフの後をアスランが引き継ぐ。
「何かあったときにサポートするのも僕の仕事だ。今くらいだったら問題なく鎮められるから安心していい」
それに、と。アスランは言葉を続けた。
「最初にしては悪くない出来だった。慢心できるレベルじゃあないが、少しは自信を持っていい」
思わぬ賛辞。ちくりと釘を刺すのを忘れないあたりがアスランらしいが、それでも、
こんな風にアスランから褒め言葉をもらうのは初めてではないだろうか。
こわばっていた心がほっと解けていくような、そんな暖かい心地がアリアを満たしていく。
そして次の瞬間、アリアの視界は暗転した。
back
menu
next