アリアは考えていた。
今後、カイとどのように接したらいいのか。
気付かれないようにしていたつもりだったが、アリアがカイに対して距離を置いていることをギルフォードにしっかり
見破られてしまっていた。ということは、最悪、カイ自身も何がしかを感じている可能性がある。
カイとの関係を悪くするのは嫌だった。勝手にぎくしゃくしているアリアが言えたことではないかもしれないが。
このままでいいとはアリアとて思っていない。しかし、こんな時にどうすればいいのか、アリアにはわからなかった。
恋愛ごとに疎い人生を送ってきた自分の過去を恨みたくなるくらいだ。
「はぁ…」
どうするべきか迷った時、人は無意識にため息をつく。アリアは先ほどから、ため息をつきっぱなしだ。
自室に戻ろうと、アリアは階上へと続く階段に足をかけた。半分くらい上ったところでもう一度ため息をついて、
ふと視線を上げたアリアの視界に、ちょうど正面から階段を下りてくるカイの姿が飛び込んできた。
「わっ…!?」
小さく叫んで、咄嗟に飛び退ろうと一歩後退したアリアの右足が空を踏んだ。気持ちの悪くなるような浮遊感に包まれたのは
ほんの一瞬で。すぐにアリアは落下し始めた。
「アリアっ…!」
カイに名前を呼ばれたように感じたのは、果たして現実か、それとも気のせいだったのか。
アリアはこれから襲ってくるであろう衝撃を想像し、ぎゅっと目を閉じた。
一瞬、意識が飛んでいたらしい。
あの高さの階段から落ちたにも関わらず、あまり体に痛みを感じない。
「………?」
訝しく思いながら目を開けたアリアの前に、カイの端整な顔が飛び込んできた。そこで初めて、自分がカイを下敷きに
倒れていたことに気が付く。庇うように、アリアの体をその両腕で包み込んで。アリアが慌ててカイの上からどくと、
カイは微かにうめき声を漏らして、眉をしかめながら瞼を持ち上げた。
「アリア、怪我は…?」
こんな状況でも、カイは真っ先にアリアの心配をする。
「私は大丈夫。それよりカイが…!?」
「大丈夫だ」
何度か瞬きをしてから、手をついてゆっくりとカイが体を起こす。アリアを見て、そして笑った。
「よかった。今度は、守れた」
「え…?」
「あの時は逆だったから。何かあったら今度は、絶対に俺がアリアを守ろうと思ってたんだ」
しっかりしているように見えるが、やはり頭でも打ったのかもしれない。カイが何を言っているのか、アリアはわからなかった。
「巫子様」
青竜騎士団の制服に身を包んだ黒髪の、ヒースクリフが駆け降りてくる。
「巫子様、お怪我は」
「平気です。カイが庇ってくれたから…」
「ご無事で何よりです」
床に座り込んだままだったアリアを立たせてから、ヒースクリフはカイの傍らに膝をついた。
「カイ、動けるか?」
「問題ありません」
「医務室まで歩くぞ」
「はい」
ヒースクリフに頷いて、カイはさっと立ち上がった。
「巫子様も、念のため医師に診て頂いた方がいいでしょう。医務室までお連れします。歩けますか?」
「あ、はい。歩けます。大丈夫です」
カイに肩を貸したヒースクリフが先導する、その後ろをアリアは歩きだした。
特に問題なし。
医師のその診断を聞いて、ようやくアリアはほっと胸を撫で下ろした。
「職務に戻っても大丈夫でしょう。ただ、もし途中で気分が悪くなるようなことがあったら、無理せず休息するように」
ちなみに、アリアは打ち身が数か所できた程度だ。階段から足を踏み外し、宙に放り出されたアリアの体を、
咄嗟にカイが抱き込んでくれたおかげだろう。
「では、巫子様。私たちはそろそろ戻ります。シェラザード殿、巫子様をお任せします」
さっと敬礼をして、カイとヒースクリフは医務室から出て行った。
騒ぎを聞いて、わざわざ医務室まで駆けつけてくれたシェラザードは、今一度アリアの無事を確かめるようにあちこち手を触れた。
「アリア様、お怪我がなくて本当によかったです」
「ごめんなさい。心配かけて」
「階段から落ちるなんて、何かあったんですか?」
「ちょっと考え事をしていて…ぼうっとしていたら、つい」
「カイ様がいて下さったからよかったですが…。アリア様、これからは、階段の途中で考え事などしないようにして下さい」
いつもより強い調子で諭される。きっと、それだけ心配させてしまったのだろう。申し訳ない気持ち一杯に、アリアは頷いた。
シェラザードに付き添われて改めて自室へと向かいながら、アリアは先ほどの、カイが言った台詞のことを考えていた。
『今度こそ守れた』。
『あの時は逆だったから』。
何のことだかまったくわからなかったが、何の意味もなく出てくる台詞とも思えない。それにさっきから、
もう少しで何かを思い出せそうなきがする。
(あの時って、多分、カイがクィンベリルに引っ越す前のことよね)
二人がまだ子供で、毎日一緒に遊んでいた頃。
「あ…」
思わず漏れ出た声に、何事かと振り向いたシェラザードに、なんでもないと誤魔化し笑いで手を振る。
(もしかして、あの時…?)
一つ、思い当たることがあった。
当時よく、近所の男の子たちにからかわれていたカイ。その日もアリアは、いつものようにカイを助けに入った。言い合ううちに、
男の子の一人がふざけるようにアリアの肩を突き飛ばし、たまたま階段の際の辺りに立っていたアリアは、そのまま階段から
転げ落ちたのだった。幸い命に別条はなく、目立った外傷を負うこともなかったのだが。
(カイ、すごく気にしてた)
もしかするとカイは、幼い日の出来事を、ずっと忘れずにいたのだろうか。アリア自身など、とうの昔に記憶の彼方に
置き去ってきたようなことなのに。
「………やっぱり、カイとこのままは嫌だな」
今のまま、微妙にぎくしゃくとした距離感は嫌だ。
前を歩くシェラザードに聞こえないような小声で、アリアはそっとつぶやいた。
第三週目を終えた、五回目の休日。
アリアは一人書庫にいた。適当に選んだ本をぼんやりと眺めながら、頭の中ではまったく別のことを考えている。
元のように、カイと普通に話せるようになりたい。
至極簡単なことのはずなのに、アリアは未だ、一歩を踏み出せずにいた。というのもやはり、自分の存在がカイの今後において
邪魔になるのではないか、という懸念があるせいだ。近づきたい。近づいてはいけない。相反する二つの思いの、そのどちらもが
アリアの本音だ。だからこそ、アリアは困っている。
「なんだ、またここにいるのか」
不意に声がかけられる。いつの間に書庫に入ってきたのか、アスランがアリアを見下ろしていた。
「今日は歴史書を読んでいるのか」
「あ、え………はい」
実は何の本を読んでいるのかすらよくわかっていなかったアリアは、慌てて本の表紙を確認して、頷いた。
「……何の本かもわからないで読んでいたのか?」
「あはは…」
呆れたようにアスランに言われても、それが事実であるがゆえに、アリアは笑うしかない。
軽いため息を一つ。あとは無言で、アスランは近くの本棚から抜き取った本を片手に、少し離れた椅子に座った。
馬鹿にするようなその態度に少し傷ついたが、今回は完全にアリアの自業自得だ。そのままアスランが、アリアに見向きもせず
本を読み始めたのを見届けて、アリアは目の前に開かれたきり、ほとんどページの進んでいない歴史書に視線を落とした。
「………何か、わからないことがあったら」
声をかけられて、顔を上げるとアスランと目が合った。かと思うと、さっとそらされる。
「わからないことがあったら、質問しろ。歴史は専門外だが、お前よりは僕の方が詳しい」
「………」
勉強を見てあげようと、これは、そう言われているのだろうか。
この一週間、アスランは時々優しい。基本的には今まで通りの憎まれ口だが、ふとアリアをフォローするようなことを言ったり、
気にかけてくれたりするのだ。
「…アスランさん。一つだけ、訊いてもいいですか?」
アリアは意を決した。
どきどきしながら、一か八か質問してみる。
「言ってみろ」
「あの、ですね。その………仲良くしたい人がいるんですけど、その人にとって、自分が迷惑になっているかもしれなくて。
一緒にいない方がいいって思うんですけど、一緒にいたいって思うんです。こんなとき、アスランさんだったらどうしますか?」
「………何だそれは」
思いきり変な顔をされてしまった。
「だって、わからないことがあったら質問しろって…」
「本の内容について言っているんだ。そんな、人生相談をしろと言ったわけじゃない」
「それはそうなんですけど…」
しかしアリアが今、一番わからないことがそれなのだ。
眉間に盛大にしわを寄せているアスランを、すがるように見つめる。
「こんなこと、相談できる人がいなくて…」
ギルフォードにはまた呆れられそうで。ラーイはなんだか怖い顔をしそうな気がする。女官たちにはやたらと面白がられそうだ。
シェラザードは真剣に考えてくれそうだが、あまり心配をかけたくなかった。
「………詳しい事情は知らないが」
不機嫌そうな顔のまま、先ほどよりも重くて深いため息を吐き出して。
「迷惑かどうかなんて、本人にしかわからないだろう。心の中のことなど本人以外にわかるはずがない。言葉にしなければ、
話しをしなければわからないと、そう僕に言ったのはお前だったはずだが」
「………そっか」
目が覚めたような気がした。
アスランの言う通りだ。こんなこと、いつまでも頭の中で考えていても何の意味もない。アリア自身がそう言ったはずだったのに、
言った自分が実行できていなかった。
「そう、ですよね。話してみなきゃ、カイが何を考えているかなんて、わからないですよね。少し怖い気もするけど…
いつまでも悩んでいるより、ずっといい」
我ながら単純だとは思うが、展望が開けた途端に今すぐ走り出したくて、体がうずうずし始める。
「ありがとうございます、アスランさん。私、行ってきます」
ばたばたと慌ただしく本を片付けて、アスランに勢いよく頭を下げると、アリアは書庫から飛び出していった。
騒々しく青竜騎士団に駆け込んで、ちょうど仕事を終えたところのカイをつかまえると、アリアは青の宮の一角、
ほとんど人通りのないところにひっそりと建つ東屋へとやってきた。この宮殿で働く人たちが体を休めるために造られたのだろう
この場所はしかし、実際に人が休憩している姿を一度も見たことがないくらいにいつも静かだ。ウォルターの温室と同様、
古い時代に造られて、今では忘れられている場所の一つなのだろうか。アリアがここを知っているのだって、
散歩をしていて偶然見つけたから、というだけのことだ。
「ごめんね、カイ。仕事が終わったばっかりなのに、いきなり付きあわせて」
「いや、構わない。………元気だったか?あれから、具合が悪くなったりとかは?」
「大丈夫。元気、元気だよ。カイの方こそ怪我の調子はどう?」
「もうすっかり治ったさ」
木製のベンチに二人並んで腰かけて、しばらくの間、他愛ない世間話に興じる。そういえば、とホーキンスとその後
どうなったのか訊いてみたところ、今ではほとんど昔のような良い関係に戻りつつあるらしい。完全に、何のこだわりもなく
お互い話せるようになるにはもう少しかかるかもしれないが、それも時間の問題のようだ。
「よかった、仲直りできて」
「アリアがきっかけを作ってくれたおかげだ。ありがとう」
「どういたしまして」
ふとした会話の合間に訪れるわずかな沈黙。その間にカイが、ところで、と言葉をはさんできた。
「俺に何か、用事があったんじゃないのか?わざわざ世間話をするために俺に声をかけた訳じゃないだろう」
「えっと、ね。カイに訊きたいことがあって…」
「訊きたいこと?何だ?」
「うーん…」
とにかく話をしようと決心してきたはいいが、どうやって切り出したらいいのか。少し考えて、アリアは結局、
直球勝負に出ることにした。
「カイって、好きな人とかいるの?」
言ってから、いささか直球過ぎたかと反省する。
隣でカイが息を詰まらせてむせていた。
「………なんで、いきなりそんなこと…」
切れ切れに問いかけてくるカイに、アリアは素直に自分の思いを語った。女官たちにカイとの間柄を勘違いされたこと。
同様の勘違いをこれからもされる可能性があること。そうなった場合、自分の存在がカイの恋愛の邪魔になるのではないかと
考えたこと。
一通りアリアの話を聞いてから、カイはまっすぐ正面を向いたまま、ぽつりと言った。
「好きな人ならいるよ」
その褐色の瞳は、何もない虚空に誰の姿を見ているのだろうか。
「だけどアリアに、そんな風に変な気を遣われたくない」
「だけど…」
「それに、俺がアリアと一緒にいたってその人はまったく気にしないさ。むしろ、少しくらい気にして欲しいくらいだ」
そっと見上げたカイの横顔はなんとなく、怒っているようにアリアには見えた。
「カイの好きな人って誰?私の知ってる人?」
「秘密だ。アリアには絶対に」
失礼な台詞。やはり怒っているのだろうか。
しかしカイは一転して、どこか探り探りというか、恐る恐るというか、そんな雰囲気で先を続けた。
「俺は、アリアが好きだから。どんな理由であれアリアに避けられるのはつらい。………アリアは、俺と一緒にいるのは、嫌か?」
嫌な訳がない。むしろその逆だ。逆だからこそ、アリアはずっと悩んでいたのだ。
「……私も、カイと一緒がいい。カイに恋人ができても、カイが結婚しても。ずっと今みたいに、家族みたいに一緒にいたい」
カイが笑う気配がする。
それが苦笑いであると、なぜだかアリアはそう思った。
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