「巫子様。おはようございます」
朝一番、アリアは満面の笑顔でラーイに出迎えられた。
「おはようございます。……ラーイさん、なんだか機嫌がいいですね」
「そう見えますか?」
にっこりと。どこからどう見ても、機嫌よく見える。
「昨日はごちそうさまでした。ケーキ、美味しかったです」
「ありがとうございます。良かった、ラーイさんのお口に合って」
「それでですね…」
おいでおいでと手招きされて、後をついていったアリアにラーイは、机の陰から取り出したものをひょいと手渡した。
「心ばかりのお礼です。受け取って頂けますか?」
昨日、ケーキを詰めてラーイに渡したバスケット一杯に、あふれんばかりの花束が顔をのぞかせている。
「ウォルターの温室から頂いてきたんです」
「そんな…すみません。お礼のつもりが、かえって気を遣わせてしまって」
「いいえ。私も、楽しんで選ばせてもらいましたから」
ということは、この花束はウォルターではなくラーイが直々に花を選び、作ったものだということらしい。
言われてみればどこかラーイらしい、派手ではないがセンスのいい花束だ。
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」
結局、アリアは素直に礼を言って、花束ごとバスケットを受け取った。
「この半月の間、ずっと魔法を教えてきたが」
その日の午後、アスランはテーブルの上で両手を組んで、おもむろにそう切り出した。
「お前には、理論的なやり方はむいていないようだ」
「………」
この期に及んで、そんな風に貶されるとは思ってもみなかった。微かにアリアの表情が歪んだのを見て、
アスランが慌てたように先を続ける。
「待て、最後まで人の話を聞け。他にもっと適した方法があるのではないかと言おうとしたんだ」
「他の方法、ですか…?」
「ああ」
アスランが頷く。
「お前は、暗闇は苦手か?」
「好きではないですけど……?」
「わかった」
一体何をわかったのか、アスランが口の中で何事かつぶやく。
アリアが首をひねったその瞬間、不意に部屋が真っ暗闇に包まれた。いきなり頭の上から布をかぶせられたかのような、
急激な変化。
「なっ、なんですか、どうしたんですかっ!?」
半分パニックになりながら、アスランがいるはずの場所に向かって話しかける。
「アスランさん!?」
アリアの叫ぶような呼びかけに対して、応じるアスランはいたって冷静だ。
「落ち着け。叫ぶな。大丈夫だ、僕がやった」
「え…?」
「暗闇は好きでないと言ったな?なら、自分でなんとかしてみろ」
「アスランさん、何を言って…」
「いいから僕の言う通りにしろ。心の中に、明かりをイメージするんだ」
「………」
正直、アスランが突然何を始めたのかアリアにはまったくわからなかった。わからなかったが、このまま言い合っていても
埒があかないのは確かだ。
腑に落ちない感は否めないが、とりあえずアリアはアスランに従うことにした。自分の指先すら見えない中で、更に瞼を閉じる。
思い描くのは、何度も練習した明かりの魔法だ。薄黄色にぼんやりと輝く光の玉。アスランに明かりを、と言われると、
反射に近いレベルで思い出してしまうそれを、アリアは心に描いた。
(明かりを、イメージする…)
ふと、閉ざした瞼越しに感じるものが変わったことに、アリアは気がついた。つい先ほどまでの黒一色が、白い闇へと
変化した気がする。
「もういいぞ。目を開けてみろ」
促されて目を開ける。相変わらず両手を組んだ体勢で、アリアを見つめるアスランが見えた。視界を覆い隠す闇はいつの間にか
その姿を消し、辺りは何事もなかったかのように、いつもと同じ風景が広がっている。何がどうなったのか理解できずにきょろきょろと
周囲を見回したアリアは、自分のすぐ傍らに見覚えのある光球が静かに浮かんでいるのを発見した。嫌というほどに、
見覚えのあるそれ。
「やればできるじゃないか」
「これ、私が…?」
信じられない。今までどれだけアリアが頑張っても、その形を維持することができなかったというのに。
「強く求め、心に願う。最も原始的な魔法の姿だ。教本にあるような言葉や手順は、もともと魔法というものを技術として確立し、
扱いやすくするためのものであって、本質ではない。お前は巫子として見出される以前に、無意識に竜の力を使ったことがあると
聞いたからな。理論的なやり方よりも、感覚的に覚える方がむいているのではと思ったんだ。まずは魔法を使う感覚を覚えて、
理論はそれから学べばいい」
未だぽかんとした表情のまま、いつになく饒舌なアスランを見る。
魔法が使えたことも驚きだが、それよりもアリアは、アスランがきちんと自分のことを考えてくれていた、
ということに驚いていた。アスランは、自らの責任を果たそうとしてくれていた。そんなことにも気付かずに、
ラーイに魔法も教えてくれたらいいのに、などと言っていた自分が恥ずかしくてたまらない。
アリアの沈黙をどう受け止めたのか、アスランは、ほんのわずか口元に笑みを浮かべた。
「僕も同じだったからな」
「同じって…?」
「お前と同じで、魔法理論は苦手だった」
思わぬ台詞。宮廷魔法使いという重役を立派に務めているように見えるアスランが、そんなことを言うとは。
「でも、いつも魔法を使うとき、ちゃんと手順を踏んでますよね…?」
「仕事柄、仕方なくだ。他の魔法使いたちの模範である宮廷魔法使いが、手順を無視する訳にはいかないだろう」
正直、面倒くさい。などとぶつくさ言う。
「だからな、その…なんだ」
「…?」
「………お前も、大丈夫だ。きっとうまくいく」
「………」
目をそらしてぼそぼそつぶやくアスランの、いつも白い頬が、微かに赤い。
(これは、励ましてくれてるのよね……たぶん)
つい、穴が開きそうなほどに凝視してしまう。
当のアスランは、やがてアリアの視線に耐えきれなくなったように、今度は逆にアリアをにらみつけた。
「だからといって、ぼんやりとしている暇はないぞ。時間は無限にあるわけではないんだからな」
そんな風に厳しい言葉を投げかけられても、アリアはもう、大丈夫だった。
その日の夕方も、ギルフォードは飽きずにアリアの部屋を訪れた。
「ふっきれたみたいだな」
アリアの顔を見るや否やギルフォードは言った。
「そうかな…」
「ああ」
どんな顔をしているのかと、思わず自分の頬を撫でたアリアに、ギルフォードは頷いた。
「…そうだね、うん。ちょっと色々なこと、自分の中で整理できたかも」
「そうか」
よかった、とギルフォードが笑う。自分のことのように嬉しそうな笑顔。
精神的な余裕のなかったときには気付かなかった。こんなにもギルフォードに心配をかけてしまっていたという事実に、
アリアは今更ながらに気が付いた。
ありがとう。素直にそう言おうとしたアリアの鼻先に、思わぬパンチが飛んできた。
「あとは、カイと仲直りするだけだな」
「…っ!?」
言葉が喉に詰まって一瞬、呼吸が止まりかける。それくらいダメージの大きい不意打ちだった。
「な、なんでそんなことを…」
「なんでって…」
そっちこそ何を言ってるんだ、というような顔をされてしまった。
「見てればわかるだろ」
「………仲直りもなにも、喧嘩なんてしてないわよ」
アリアの言葉に嘘はない。事実、喧嘩などしていないのだから。ただ一方的に気まずいだけだ。
「もしかして、あれからずっとカイのこと避けてるのか?」
呆れたようなギルフォードの声音。それがまさしく正解であるがゆえに、アリアはぐうの音も出なかった。
「お、女の子には、色々あるのよ!」
ようやくの思いで何の言い訳にも説明にもなっていない台詞を返す。自らの圧倒的不利を悟って、アリアはなんとかして
この話題を終了させるべく声を張り上げた。
「そういえば!ギルは、いつから騎士団の団長を務めてるの?」
完全にその場しのぎの発言ではあったが、自分のその質問につられるように、アリアの中で好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。
「サラ様のこととか詳しい?」
ラーイいわく、豪快な人だったという先代の巫子。ギルフォードの目から見た印象も、やはり同じなのだろうか。
絵本の続きをせがむ子供のような期待に満ち満ちた瞳で、アリアはギルフォードを見上げた。
しばし無言の攻防の後、やがてギルフォードは、諦めたように一つため息を落とした。
「俺が団長になったのは六年前の、先々代の巫子のときだ。サラのことは、まぁ…詳しいのかどうかはわからないが、
知らない関係ではないな」
「サラ様って、どんな人だった?ラーイさんは豪快な人だったって言ってたけど」
「そうだな……」
言葉を探すように少しの間、宙を見つめる。
「ことごとく、人の度肝を抜くことをする人だったな。というか、主に俺が度肝を抜かれていたんだが」
豪快の次は、度肝を抜く人ときた。
やはりどうあっても、アリアの抱いていた青竜の巫子像の通りにはいかない人物らしい。
「なんたって、顔を合わせる度に挨拶代わりに人の頭を撫でてくるんだからな。身長差があるのに、わざわざ背伸びしてまでだぞ。
初めてやられたときに、俺がどれだけ衝撃を受けたか…」
頭を撫でられるギルフォード。
アリアには、まったく想像ができなかった。
「すぐ勝手にいなくなるし、色んなものを拾ってくるし…」
その度に自分がどれだけ苦労したかと解説付きで、ギルフォードはサラの武勇伝を一つ一つ指折り数えていった。
しかし、話す言葉とは裏腹に、その表情は決して険しいものではなく。むしろ柔らかいと言ってもいいものだ。
「…でも、好きだった?サラ様のこと」
アリアの問いかけに、ギルフォードは一瞬だけ虚を突かれたような顔をして、それから微かに笑った。
「……そうだな。困ったところも多かったが、それ以上に尊敬できる人だったし、大変だったが楽しかった。
俺のことを対等に扱ってくれるのも嬉しかった」
完璧ではない。それでも、周囲の人にこうして認められ、慕われている。サラの話を聞くと、頑張ろうという気持になれた。
アリアをはじめ、多くの国民が心に思い描いているであろう、完璧な青竜の巫子の姿。そんな風にはなれないかもしれない、
という思いはずっとアリアの中にあった。自分を卑下するとかそんなことではなく、おそらくそれは、純然たる事実だ。
しかし、それでもいいのだと。自分らしくていい。人を愛し、人に愛される。そうあれればいいのだと言われているような気がして、
励まされるのだ。
「ねぇギル。私、頑張るね」
「ああ、頑張れ。俺も力になるから」
「うん。これからもよろしくね」
なんとなく改まった気持ちで、アリアはギルフォードとやや照れ臭い笑顔を交わした。
「ギルは、サラ様だけじゃなくて先々代とも知り合いなんだよね?」
シェラザードに淹れてもらった紅茶をすすりながら、アリアは向かい側に座って同じようにカップを口に運んでいる
ギルフォードに尋ねた。
「…ああ、そうだな」
「先々代の巫子様って、ラーイさんの妹さんだったんだよね?やっぱり似てた?」
「ラーイから聞いたのか?」
「そうだけど…」
なぜそんなことを訊かれるのだろうか。訝しく思いながら、アリアは頷いた。
アリアの返答に、ギルフォードはそうか、と一言つぶやいて目を閉じた。次の瞬間、閉ざした瞼を再び開いたギルフォードは、
少し不自然なほどに明るい声音で言い放った。
「どちらかというと、アリアに似た人だったな」
ギルフォードの態度に不信を覚えなくもなかったが、不躾に追及していいのだろうかという迷いと、それ以上に好奇心が勝った。
「ラーイさんには似てないって言われたけど」
「そうだな、似てないな。でも似てるんだ」
「…?」
ギルフォードが何を言っているのか、まったくわからない。
「リルカはお嬢様だったからな。アリアとは全然違った。だけど、なんとなく印象が重なるときがあるんだ」
やっぱり、よくわからなかった。
似ていないけれど、時々似ている。そういえばラーイにも同じようなことを言われたなとアリアは思い出した。
まっすぐに人を見るところが二人は似ているとラーイは言った。ギルフォードの言葉の意味も、そういうことなのだろうか。
しかし正直、アリアとしては、自分自身でも無自覚な癖のことを指摘されても、いまいちぴんとこない。結局、
先々代の人柄に関してはよくわからないままだ。
「先々代とも、こんな風にお茶してた?」
ふと気になって、アリアは尋ねた。
「いや…リルカとは、そうでもなかったな」
「仲、悪かったとか?」
「そういうわけじゃないんだが………俺よりも、仲のいい相手がいたからな。あんまり踏み込もうと思わなかった」
なんとなく歯切れの悪い、曖昧な感じの物言いに、アリアはひらめいた。
「恋人がいたの?」
隣に座るギルフォードに、ずいっと詰め寄る。
普段あまり恋愛話で盛り上がるタイプではないが、アリアとて一応は女だ。それに自分と同じ竜の巫子の、
しかも似た年頃の人の話となれば、やはり興味は湧いてくる。
「ねぇ、それってお城の人と?」
更に身を乗り出したアリアを押しとどめるように、ギルフォードはさっとアリアの眼前に手のひらをかざした。
「悪いが、ノーコメントだ」
「ええっ、何でよ。けち」
「自分の知らないところで、そういうことを勝手にあれこれ話されたら嫌だろ」
「うー…」
悔しいが、ギルフォードの方が正論だ。
「そう拗ねるな。ほら、俺の分の菓子もやるから」
そう言って、ギルフォードは自分の菓子を皿ごとアリアの前に移動させた。
「私のこと何だと思ってるのよ、失礼な。お菓子で機嫌が良くなるほど子供じゃないわよ」
「じゃあいらないか?」
「………もらう」
食べ物に罪はない。それに今日の菓子はちょうどアリアの好物だった。果たしてギルフォードは、
そこまでわかって言っているのだろうか。どちらにせよ意地悪だ、とアリアは思う。
「………」
もそもそとギルフォードの分の菓子まで頬張りながら、アリアは上目遣いにギルフォードをにらんだ。
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