アメシスト色の瞳がすっと細くなる。
 その硬質で、鋭い眼差しがアリアを貫く。
 次にくるのはため息だ。
 そして、いつもの台詞。
「……お前、馬鹿か?」


 アリアが青竜の巫子となって、今日で二週目の半ばとなる。人々の前で巫子の披露をする式典の日まで あと約半月。そろそろ、折り返し地点に到着するところだ。
 アリアは悩んでいた。
 先日ギルフォードに問いかけられた時に、心の中にしまい込んだ悩み。
「………」
 口を開けば、ため息ばかりが出ていく。どうせなら悩みも一緒にいなくなってくれればいいのにと アリアは思う。
 アリアはいまだに、うまく魔法を扱うことができなかった。
 初めに教わった、アスランいわく初歩の初歩だという光の魔法。なんとか光を作り出すことは できるようになったが、どうしてもそれを維持することができなかった。ぱっと光って、すぐに消える。 そこから先に進むことができない。そしてアリアが何か失敗をする度に、アスランは決まってあの台詞を 言うのだ。
 頑張れ自分、前向きになるんだ自分、と励ましてはみるものの、アリアとて流石に落ち込みたい気分に なる。

「元気がないですね」
 ラーイと目が合った。
「気分が優れないのでしたら、無理をなさらないで下さい。今日はお休みにしましょうか?」
 草色の瞳に宿るのは、相も変わらず心配そうな表情。
「………ラーイさん」
 ぽつりとラーイを呼ぶ。
 ラーイを前にして、それまで強がって、胸の中に押し込めていた思いがあふれた。
「実は、落ち込んでるんです。………慰めて下さい」
 言葉にしてから、アリアは後悔した。うっかり何を言っているんだと思う。
 しかしラーイは何一つ追及することなく、ただアリアの頭にぽんと手を乗せた。そのまま優しく頭を 撫でられる。
 頭を撫でられるなんて、どれくらいぶりのことだろうか。気恥ずかしい一方で、とても心地良い その感触にアリアは身を委ねた。目を閉じて、ラーイの手のひらの暖かさを味わう。
「………ありがとうございます」
「どういたしまして」
 ラーイの笑う気配。
「すみません、こんなこと頼んでしまって」
「少しはお役に立てましたか?」
「はい。少し、前向きになりました」
「それはよかった」
 ほのぼのした空気が流れる。
 それはアリアの心を浮上させると同時に、頑なに強がろうとする思いをいとも簡単に溶かした。 押さえ込んでいた蓋がなくなって、弱音や愚痴が流れ出す。
「…魔法も、ラーイさんが教えてくれたらいいのに」
 最低の言葉だ。自分ができないことを他人のせいにして、責任転嫁する言葉。一旦は浮上した心が、 今度は自己嫌悪に沈んでいく。自分でも思っていた以上に悩んでいたのだということに、今更ながらに 気が付いた。
「ごめんなさい。みんな忙しい中、わざわざ私のために時間を作ってくれてるのに」
 アリアの頭を撫でていた手が、すっと下りてきて頬に触れる。
「本当に、真面目な人だ。それでずっと悩んでいたんですか?」
 硬直して動けないでいるアリアの頬を惜しむように一度撫でて、ラーイの手が離れていく。 さっきまで心地よく感じていたはずのその温もりが離れたことに、なぜかアリアはほっと安心した。
「大丈夫ですよ。アスラン殿は優秀な方ですから、きっと何か考えているはずです」
「そ、そうなんでしょうか…?」
「それに彼は、宮廷魔法使い筆頭としての任務を途中で投げ出すようなことはできませんから」
 意味深な発言に、アリアは目を瞬いた。
「今の地位は、彼の養い親が残したものですからね」
「養い親って…血のつながっていない、お母さんのことですか?先代の竜の巫子だったていう…」
「ええ。先代の宮廷魔法使い筆頭であり、竜の巫子でもあった、サラ・バロックワーズ様です。 その直々のご指名で、アスラン殿が筆頭を継ぐことになったんですよ」
「あの…ラーイさん」
 思わずアリアは身を乗り出した。
「アスランさんとサラ様のこと、詳しく教えてもらえませんか?」
 ラーイならば、シェラザードが知らない様々の事情を知っているかもしれない。それを聞けば、 アスランのアリアに対する態度の理由がわかるような気がした。
 食いつくようなアリアの視線を受けて、昔のことは私も城内の噂話程度にしか知らないのですが、 と前置いてからラーイは話し始めた。
「アスラン殿は元々、孤児だったようです。魔法に対する適正が並外れて高かったために、 よく無意識に暴走させて、それが原因で親に捨てられたのだと聞きました」
「暴走って…私が、初めて会ったときにオルフの力を勝手に使ったみたいな?」
「近いですね。ただアスラン殿の場合は、もっと厄介だったようです。止めることのできる者もなく、 暴走した魔法は周りの人やものを傷つける方向に働いてしまった」
 ぞくりと、アリアの背中を悪寒が走った。それはもしかしたら、アリアが辿っていたかもしれない道だ。
「そんなアスラン殿の話を聞いたサラ様が、彼を引き取ったのです」
 サラに引き取られて後、アスランはみるみるうちに魔法使いとして成長していったのだという。 サラが竜の巫子となるべく宮廷魔法使い筆頭を退いたとき、その後継としてアスランが選ばれたことに 異議を唱えるものはいなかったそうだ。
「私が直接アスラン殿と面識をもったのはサラ様が巫子となり、アスラン殿が宮廷魔法使い筆頭と なってからですが。彼はサラ様から継いだ今の地位を大切に、守ろうとしているように見えます。 どんな理由があろうとも、それを放棄することはできないだろうと」
 ラーイの見立ては、おそらく正しいのだろう。アリアを嫌いだと言い放ち、アリアの失敗にため息を つきながら、それでもアスランはアリアに魔法を教えようとしてくれている。
「先代…サラ様って、どんな方だったんですか?」
 尋ねたのは、単純に好奇心からだ。
「そうですね……なんというか、強い方でしたね。豪快というか…」
「豪快?」
 なんだか思いもよらない単語が耳に入ってきた気がする。アリアの聞き間違いだろうか。
「尊敬すべき方だったと思いますよ。ただ、おそらく巫子様が想像されているような性格ではなかった ですね」
 ラーイは苦笑している。
「王都の出身で、家の格も高い方でしたから、公の場ではしかるべき振る舞いをされていましたが。 よく笑うし、世話好きで、少し強引なところもあって…。供を連れずに城を抜け出しては、 一日帰ってこないこともありました」
 ますます想像ができなかった。
 宮廷魔法使い筆頭と青竜の巫子。国の要職を二つも務めた女性。そして、アスランを育てた人。 雲の上の存在のように思っていたのに、それではまるで、どこの町にでもいる普通の人間と変わらなく 聞こえる。いやむしろ、より変わり者なのではないかと思ってしまう。
「がっかりしましたか?」
「いえ、がっかりとかじゃないんですけど…」
 ただあまりに、イメージが違っただけだ。
「色々と気になってしまう気持ちもわかりますが、あまり悩みすぎない方がいいですよ。 あなたにはあなたのいいところがあると、私は思いますから」
 そうだ、とラーイが、何か思いついたように顔を上げた。
「巫子様は、書庫に行かれたことはありますか?」
「書庫、ですか…?いいえ。行ったことないです」
「それでしたら、これから書庫に行ってみましょうか。魔法に関する書物もありますから、 何か参考になるかもしれません」
 言うが早いか、ラーイはさっと立ち上がった。さあ、と手を差し出される。笑顔で促されてその手を 取ったアリアは、強引ではないが抵抗することもできない強さで連れて行かれた。


 アリアの思いをよそに、時間はあっという間に過ぎ去っていった。今日で二週目の第一休日となる。
 ラーイに書庫を案内されて以降、アリアは暇を見つけてはそこに通うようになっていた。 どれだけの書物が収められているのか見当もつかないくらいに広い書庫には、読むことさえ困難なほどに 難解な本が並んでいたが、比較的易しい魔法書の類もあった。今もちょうど、その内の一冊を 読んでいるところだ。
(できないって言うだけで、自分から努力しようとしてなかった)
 そう思う。
 できないのなら、できるようになるべく必死で努力すべきだったのだ。この青の宮には幸い、 そのために必要なものはそろっているのだから。これまでのアリアはただ、受身になって人の話すことを 聞いていただけだ。
 書庫の一番隅の方に椅子を移動させて、背もたれの部分に思い切り寄りかかりながら、 黙々と文字を目で追っていく。見渡す限り、辺りに他の人間の姿は見えない。静かな空間に時折、 アリアが本のページをめくるときの紙のこすれる音が響く。
 一人で本を読むことに、落ち着くと感じる自分がいることは新しい発見だった。人目を気にせず 自分のペースで、ゆっくりと、何度も立ち止まったり戻ったりしながら。着実に読み進めていく。
(もっと早く、ここのことを教えてもらえばよかったな)
 アリアがそんなことを考えたそのとき。

 微かな物音がした。
 はっと顔を上げたアリアの視界に、見知った人の姿が映る。アメシスト色の瞳は大きく見開かれて、 肩の辺りでそろえられた銀髪がさらりと揺れる。
「どうしてこんなところに…」
 アスランは心底驚いたという風に、呆然としてつぶやいた。
「本を読んでいたんです」
「今日は休みの日だろう。………それは、魔法書か」
 グリザリー著、魔法理論基礎、と装丁をちらりと見ただけで、本の中身まで言い当てられてしまった。
「アスランさんは、どうしてここに?」
「書庫に来る理由なんて、本を読むため以外にないだろう」
 取り付く島もないとは正にこのことだ。つい先ほど、アリアに『どうしてこんなところに』と 尋ねたことなど忘れてしまったかのような態度でアスランは答えた。
「だが、お前がここにいるならあきらめる。僕は部屋に戻ろう」
 ふいっと視線をそらして踵を返したアスランを、アリアは椅子から飛び降りて先回りした。 アスランと書庫の入り口との間に立ちふさがるようにする。そしてあまり高さの変わらないアスランの目を、 真っすぐに見た。

「私はアスランさんがいても平気です。気になりません。だから、アスランさんも私のことは 気にしないで、ここにいて下さい」






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