「巫子様?」
 いつの間にかぼんやりとしてしまっていたアリアは、ラーイに呼ばれて顔を上げた。 ラーイの草色の瞳に大丈夫かと問いかけられているように感じて、咄嗟に謝る。
「あ…すみません」
「いえ、謝って頂く必要はないのですが…。少し、休憩しましょうか」
 広げていた本を閉じて、ラーイがてきぱきと机上を片付ける。
「いやっ、そんな…大丈夫です。まだ始めたばかりですし」
 実際に言葉の通りなのだ。朝の講義が始まって、まだ大したことは何一つしていない。
「気が向かないときに無理をしても、身に入らないでしょう?」
「………すみません」
 諭すように言われて、もう一度謝る。せっかく忙しい時間を割いてくれているというのに、 当のアリアがこれでは時間の無駄になってしまう。
「すみません、ラーイさん」
 三度謝る。
 ラーイに対する申し訳なさと、自分に対する情けなさとで一杯だった。
「そんなに謝らないで下さい。怒っているわけではないですよ」
 すっかり片付いた机の上で、ラーイが両手を組む。
「巫子様が何かお悩みの時には、ご相談に乗るのも私たちの務めですから」
 見つめられ、相談してみろと無言の視線で促されて、アリアは少しばかりのけぞった。
 確かにアリアは昨日から悩んでいる、というか、考えていることがある。しかしそれをラーイに 相談するのはためらわれた。
「………そういえば、カイ・ロクスウェルと話はしましたか?」
「ぅええっ!?」
 ちょうど考えていた名前を出されて、思わず変な声を上げてしまった。
「ど、どうしてそんなことを?」
 あからさまに不審な反応。
「先日お会いしたとき、彼に話があるとおっしゃっていたので…」
「ああ、そうか。そうでしたよね…」
 あはは、と乾いた笑いが口から漏れる。
 女官たちの噂話と、その後のギルフォードの言葉とで頭が一杯で、ホーキンスのことをカイに 訊こうと思っていたのをすっかり忘れていた。一度思い出すと、現金なものでやけにそのことが 気にかかる。しかし、自分の存在が意図せずカイの邪魔になってしまう可能性に気付いた今となっては、 会いに行くのもなんだか気まずかった。
「…カイ・ロクスウェルが、巫子様のお心を乱す原因ですか?」
 すっとラーイの目が細くなる。一見すると微笑んでいるように見えるその顔が、どこか怒っている ように感じられて、アリアは慌てて手を振った。
「いえ、カイは関係ないです。私が勝手に色々と考えてしまっているだけですから」
 いつも穏やかなラーイが、なんだか怖い。
 カイのことが原因であるのは確かだが、カイが何かをしたというわけではなく、すべてアリアが 一人で思い悩んでいるだけだ。だからカイには関係ないのだと、そういうことにしておいた方が いいような気がした。
「巫子様がそうおっしゃるのでしたら、これ以上は申しませんが…」
「すみません。私がぼんやりしていたせいで、変な心配をかけてしまって」
 なんだか今日は、さっきから謝ってばかりだ。
 ラーイも同じことを考えたのだろうか。くすりと、今度は正真正銘優しく笑う。
「先ほども申しましたが、巫子様を心配するのは私たちの務めですから。遠慮せず、私にできることが あったら何でも相談して下さい」
 そして最後に一言、抜かりなく付け加える。
「私自身も、務めとは関係なく、あなたの力になりたいと思っていますから」
「………」
 話をする度、一緒の時間を過ごす度に思うのだが、どうもラーイはアリアに甘いような気がする。 いや、気がするなどというレベルではなく、ほぼ確信に近い気持ちでアリアは、ラーイに甘やかされている と感じていた。
「あの、ラーイさん。一つ質問していいですか?」
 ぴっ、と挙手する。
「ええ。私に答えられることでしたら、何なりとお答えしますよ」
「私って、ラーイさんの妹さんに似ていたりしますか?」
 そう考えると説明がつくのだ。
 妹に似ているアリアを、妹のように扱っている、というのであれば、甘やかされるのにも納得できる。 庇護する者と、庇護される者の関係。アリアがラーイに対して、エディードに似ていると感じてしまうのも 同じ理由によるものだろう。
 しかしラーイは、アリアの問いを迷うことなく否定した。
「いいえ、似ていないですね」
 当てが外れた。
「妹はもっと我儘でしたよ。甘やかされて育ちましたから、巫子様のようにしっかりとはしていなかった ですし」
 身内ならではの気安さゆえか、ラーイらしくない遠慮のない物言いをする。
「ただ、そうですね」
 向こう側に、誰か他の人間を透かし見るように。ラーイはアリアの瞳を見つめた。ラーイから、 目を逸らすことができない。
「あの子も、こんな風に、まっすぐに相手を見る癖がありました。だからでしょうか、 まったく似ていないのに、時々とても印象が重なるときがある」

 ふ、と。
 細い糸をぴんと張り詰めたような空気が緩む。
 ラーイが一つ瞬きをした瞬間、強いその眼差しから解放されたアリアは無意識のうちに詰めていた息を 吐き出した。
「ちょうど年頃も同じくらいでしたから…。似ているとは思いませんが、もしかしたら、自分でも 気が付かないうちに妹のように接していたかもしれませんね」
「そうですよ。絶対にそうです」
 勢い込んで頷く。何か話していないと、変な緊張感を伴ったあの間がまた戻ってきそうに思えた。 具体的に、何がどうとは言えないのだが、なんだか今日のラーイはいつもと雰囲気が違うような気がして、 アリアは少し落ち着かない気分だった。
「だからラーイさんは、私にすごく甘いんですよ」
 なんとか場の空気をいつも通りのものに修正しようとするアリアの努力を知ってか知らずか、 ラーイは、ただ笑った。


 一人きりの静かな室内にノックの音が響く。だらしなくソファに腰掛けながら、ただ天井を見上げていた アリアが居住まいを正して返事をすると、シェラザードに伴われたギルフォードが姿を現した。
「なんだ、元気ないな。まだあれこれ考えてるのか?」
「ギル…」
 腰に手を当てて、やれやれという仕草をする。
「……別に、カイのことばっかり考えてるわけじゃないわよ。色々と、考えることがあるの」
「ふぅん…」
 ギルフォードは納得していないような顔だったが、アリアは決して嘘を言ったわけではない。確かに カイのことも悩みではある。しかし、今考えていたのはそれだけではない。アリアにだって考えることは あるのだ。
 シェラザードが失礼します、と一礼して辞すと、部屋にはアリアとギルフォードだけが残された。 つかつかと歩み寄ってきたギルフォードが、アリアの隣のソファに座る。
「じゃあ、今度は一体何を考えているんだ?」
 真っすぐ前を向いて、アリアの方を見ないまま喋る。
 アリアもやはり真っすぐ前を向いたまま、ソファの上で両膝を抱えた。行儀の悪い格好を咎めようとも しないギルフォードをちらりと横目で見る。再び前を見て、それから、ぽつりと一言。
「………秘密」
「おいっ!?」
 思わずといったように、ギルフォードがアリアをにらむ。
 アリアはわざとらしく顔を背けた。
「秘密」
 そっぽを向いたまま、同じ言葉をもう一度繰り返す。後頭部にギルフォードの視線を感じたが、 アリアはそれを綺麗に無視した。
 言えることと言えないこと、というものがある。いや、言いたくないというべきか。ギルフォードが 心配してくれているということはわかる。わかるのだが、アリアは強がりたい、と思ってしまうのだ。 気にかけてもらって、守ってもらって、与えてもらって。そればかりの関係は嫌だった。 ギルフォードとは、対等な立場でいたいのだ。
「お前、人がせっかく心配してるってのに…」
「そんなこと言ったら、私だってギルのことが心配だわ」
「俺が?どうして」
「よく私のところに来るけど、仕事は大丈夫なの?実は、意外と暇だとか」
 話をそらす目的半分、実際に疑問に思っていたのが半分のアリアのその質問に、ギルフォードは しばらく声も出ない様子だった。陸にあげられた魚のように、口をぱくぱくする。
「オルフだって、青の宮に移ってからはあんまり会えないのに。ギルとはほとんど 毎日会ってるじゃない?」
 シェラザードやラーイ、アスランと顔を合わせる機会が多いのは、それがアリアの日々の生活の中に 組み込まれているからであり、必然だ。しかしギルフォードはそうではない。カイやオルフのように、 予定がすれ違っていることの方が多いはずだ。
「これでも、結構忙しいんだぞ、俺……」
 相変わらずお前は俺をどんな目で見ているんだ、とギルフォードがぼやく。
「暇じゃない。毎日忙しくしているから、安心してくれ」
「…それを聞いて、ますます心配になったわよ」
 もしかしたら今この瞬間だって、こんなところで油を売っている場合でないのではないだろうか。
「忙しいのに、どうしてわざわざ顔見せに来てくれるの?」
「………迷惑、だったか?」
「ううん」
 アリアは迷わず首を横に振った。迷惑だなんて、思うはずがなかった。
「そうじゃなくて、逆。私の方が、ギルの迷惑になってる」
 アリアとしては、ギルフォードが会いに来てくれるのは非常に嬉しい。最近ではそんなことは ないのだが、青の宮に移ってきた最初の頃は、やはり心細い思いをするときもあった。そんなとき、 ギルフォードの存在がどれだけ支えになったことか。そしてギルフォードは、おそらくアリアの そんな思いに気が付いている。大雑把なように見えてその実、ギルフォードは細やかに人を気遣うのが とてもうまい。
「迷惑だなんて思ってないぞ」
 きっぱりと。迷いや、遠慮や、そんな素振りの欠片も見せずにギルフォードは断言した。
「どうせ責任感とか、気を遣ってとか、それで会いに来てると思ってるんだろうが、それは違うぞ。 ま、そういう風に考えている部分もないわけじゃないが……とにかく違う。俺が、アリアに会いたいから、 会いに来てるんだ」
 そこまでを言い切って、ふと口を閉じる。少しの沈黙。無言でアリアを見つめて、そして、 ギルフォードは微笑んだ。
「そうだ…俺は、アリアに会いたいって、いつも思ってる」
 見ている方がどきどきと照れ臭い気持ちになってしまうような、そんな笑顔。
「好きでやってることなんだから、アリアの方こそ変に気を遣う必要はないさ」
「あ、会いたいって、思ってくれてるんだ」
「当たり前だろ」
 なぜだろう。隣に座る、ギルフォードの体温が気になって仕方がない。
(ギルが、あんな顔して笑うから…)
 いつもと違う笑顔。いつもと違う空気。
 なんとも言えない居心地の悪さを感じて、アリアは身じろぎした。
(しっかりするんだ、自分。どうしてギル相手に、こんなに緊張しなきゃいけないのよ)
 内心で、自らを叱咤激励する。しかし一向に事態は好転せず、アリアの混乱がいよいよ最高潮に 達しようとしたその時。

「失礼致します」
 硬質なノックの音を伴って、救いの神は冷たいアイスブルーの瞳をして現れた。
「お話し中に申し訳ありません」
「セイグラム、どうした?」
 一つ会釈して、セイグラムはアリアとギルフォードが座るソファに向かって歩を進めた。長い足で、 あっという間に広い部屋を横切ってやってくる。
「急ぎ、確認頂きたいことが」
「わかった。すぐ行く」
 ごく簡単な言葉を交わして、ギルフォードはさっと立ち上がった。
「悪い、アリア。また来る」
「あ、うん…」
 最後にもう一度アリアに笑いかけて、颯爽とギルフォードは去っていった。
 その展開の速さに、アリアはぽかんとしてギルフォードの背中を見送った。
「………」
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
「あ、いいえ。気にしないで下さい」
 はっと我に返り、慌ててセイグラムに手を振ってみせる。
「それでは、私も失礼致します」
 一礼したセイグラムが退室しようとする。その瞳に一瞬、暖かな光が見えた気がして、アリアは 咄嗟に叫んでいた。
「待って下さい!」
 足を止め、振り返ったセイグラムは既にいつもの湖面のごとき表情をしている。何事もなかったかの ようなその静けさに気圧されて、アリアは呼び止めたことを後悔したい気分になった。 なんでもありません、と愛想笑いを浮かべそうになる自分を励まして、アリアは思い切ってセイグラムに 問いかけた。
「あの、セイグラムさんは……ギルのことを、どう思っているんですか?」
 ギルフォードは、セイグラムは自分を疎んでいると言った。
「どう思う、とは?」
 セイグラムを見ていると、ギルフォードの言葉は正しいように感じられる。
 しかし同時に、ギルフォードは間違っていると、そんな風に感じる瞬間があるのだ。
「ギルは、自分よりもセイグラムさんの方が騎士団の団長に相応しいんじゃないかって思ってます」
 それだけで、アリアの言わんとするところを悟ったのだろうか。
「……私は、あの方の副官であることを誇りに思っています」
 まっすぐにアリアを見つめて。紡ぎだされた言葉は、嘘があるようには思えない。
「じゃあ…」
「しかし、あの方を疎ましく思う自分が存在していたのも確かなことです。なぜあの方が、と。 そう思っていたことがある。本質を見ようともせず、あの方を貶めた。そんな自分が私は許せないのです」
 ギルフォードの傍近くにある資格はないのだと。間に置かれた一線は、自分自身に対する罰なのだと。 セイグラムは淡々と語る。
「あなたが青竜の巫子でよかった」
 あまり表情を変えることのないセイグラムが、微かに笑ったようにアリアには見えた。
「対等なものとしてあの方を受け入れ、隣に立つことができる。あなたのような人が巫子となってくれた ことを、心から感謝します」
 格式張った礼をするのではなく、セイグラムはただ、深々と頭を下げた。
「私はあの方を実務の面で支えることはできても、精神面で支えることはできません。そうあることを、 私自身が選んだ故に。これから申し上げることは私の勝手な願いであり、我儘にすぎません。ですが、 どうか…ギルフォード様を、宜しくお願い致します」
 正直なところ、アリアはセイグラムの言葉のすべてを理解することはできなかった。
 しかしその頑な思いが、紛れもなく本物の、セイグラムの真実なのだということだけは、 アリアにもわかった。






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