その身を大地に変えた後も、四匹の竜はそれぞれの国に姿を留めた。
 人々の祈りを聞き、願いを叶えるために。
 世界を破壊することさえもできるほどに強大な竜の力。
 その力は巫子に託され、恵み与えられる。
 一つの国に、一匹の竜と一人の巫子。
 そうして、四つの国は発展していった。


 小走り状態のマナに続いて廊下を突っ切る。後ろからは、心配しているような、 おもしろがっているような表情のモニカが付いてきている。
 アリアは無言で足を動かしながら、頭の中はしっかりと混乱していた。
 『我らが青き竜、ヴォルフハルト様』とマナは言った。それはこの東の大陸に興された国を 守護する竜の名であり、この国そのものの名前だ。
 アリアを訪ねてきたという相手が本当にそう名乗ったのであれば、マナのこの様子にも納得がいく。 町に置かれた教会はそもそもが自国の竜を祀るためのものだからだ。教会にとって竜という存在は、 最も尊ぶべき存在なのだ。
 詳しい事情をマナから聞き出すのはとっくにあきらめていた。おそらく、いくら質問を してみたところで時間の無駄だろう。さっさと呼び出しに応じる方が手っ取り早い。
 今朝、掃除をしたばかりの廊下を抜けて、やがてこの教会の中でも最も立派な応接室の前に 到着した。
 気持ちを落ち着けるように深呼吸をして、マナが重厚な作りの扉をノックする。 さっきアリアたちの部屋をノックした時とは大違いの、きちんとした、礼儀正しいノックだ。
「失礼致します。…アリアを呼んで参りました」
「どうぞ。入って下さい」
 後ろに立っているモニカをちらりと見てから、マナに頷いてみせる。それを受けて、 マナがゆっくりと扉を開いた。
「失礼致します。お呼びでしょうか」
 軽くお辞儀をしつつ、中に入る。頭を上げると、教会の責任者であるエディードと目が合った。 その向かい側の、長椅子に座る三人の訪問者へと視線を転じる。金色の髪を無造作に束ねた男と 黒縁の眼鏡をかけた短髪の男が両端を固め、二人に挟まれて、真ん中に背の低いもう一人が 座っている。そのもう一人を見て、アリアは目を見開いた。
 きらきらと光り輝く、青みがかった銀色の髪。金の瞳を猫のように細めて、嘘のように整った顔が 微笑みを形作る。
「こんにちは」
 それは昨日、雨宿りをしていた時に出会った少年だった。
「あなた………」
 二の句が継げないとは正にこのことだ。絶句して、口をぱくぱくとさせるアリアをエディードが 手招きする。
「アリア、そんなところに立っていないで、こちらへどうぞ。マナもご苦労様でした」
 マナが一礼して退室する気配を背後に感じながら、アリアは導かれるままにエディードの隣の ソファに腰を下ろした。何がそんなに嬉しいのか、相変わらず少年はにこにことアリアに 微笑みかけている。
 そういえば。
 はた、と思い出す。
 マナ曰く、自分は『我らが青き竜、ヴォルフハルト様』に呼ばれたのではなかっただろうか。
(まさか…)
 嫌な予感がした。
「アリア。この方たちは、王都からわざわざいらっしゃったんですよ」
 エディードの声が、ただ耳を通り抜けていく。
「真ん中に座っておられる方がヴォルフハルト様。我らが、青き竜の君です」
「オルフと。親しい者たちは皆、そう呼ぶから」
 だからアリアもそう呼ぶようにと。そう言いたいのだろうが、生憎アリアは、愛称で呼ぶほどに 竜の君と親しくなった覚えはない。ほんの数分共に過ごし、ほんの数言、言葉を交わしただけだ。
「この国の歴史については教わりましたよね?」
 途方に暮れるアリアに、見かねたようにエディードが助け舟を出す。
「御身を大地と化した後も竜の君は国に留まり、私たちを守って下さっている。そして、 その力を竜の君に代わって行使する者として、巫子が存在する」
「それは、知っています…」
 読み書きや計算と同様に、小さな頃に当然の教養として教わることだ。アリアが知りたいことは、 そんなことではない。
 不満に思ったのが伝わったのか、エディードが苦笑する。
「これからする話に関わる、重要なことなんです」
「………」
「今、この国には巫子がいません」
 それも知っている。竜の巫子は、国を支える重要な役割だ。巫子が代替わりする時には国中に 触れが出される。半年ほど前に巫子が亡くなったという触れが出てから、次の巫子が決まった という話は聞いていない。
「新しい巫子を探して各地を旅する途中で、この町に立ち寄ったそうなのですが。とうとう、 巫子が見つかったそうです」
 嫌な予感がした。
「アリア。あなたが、次代の巫子です」

「………本気で、言っているんですか?エディード様」
「私は本気だよ」
 エディードに向けて放った問いかけに答えたのは、自らをオルフと名乗った竜の君だった。
「本気で、あなたに巫子になって欲しい」
「…どうして私なんです?私は、特別なことなんて何もできない。普通の人間です」
「雨を止ませた」
 オルフが立ち上がり、アリアに歩み寄ってくる。逃げることもできない至近距離で、瞳を合わせる。
「正式な契約を交わしていないにも関わらず、あなたは私の力を引き出した」
「何を…」
「あの時、雨が止んだのは偶然じゃない。あなたは雨が止むことを願った。その思いに引きずられて、 私の竜の力が、それを叶えた。あなたの、巫子としての資質は計り知れない」
 頭がくらくらする。
 突然現れて、突然変なことを言って、突然人を混乱させて。
「………嫌よ」
 オルフが、小さく首を傾げる。
「私は、巫子になんかならない。」
 ぐるぐる、ぐるぐると、何かが頭の中で渦を巻く。それのもたらす衝動に突き動かされるように、 アリアは叫んだ。
「なんだっていうのよ。勝手なこと言って。嫌よ。私は巫子になんかならない。あなたなんて、 竜なんて大嫌い。なによ………お父さんとお母さんのこと、助けてくれなかったくせに!」
「ちょっと…落ち着けって」
 それまで黙って様子を見ていた、金髪の男が口を開く。興奮のあまり、いつのまにか ソファから立ち上がっていたアリアをなだめるような、ゆっくりとした口調で喋る。
「とりあえず、こっちの言い分を最後まで聞いてくれないか?」
 両手を組んで、身を乗り出す。
「まだるっこしいのは面倒だから、結論から言う。あんたは危険なんだ」
「なによ、それ…」
「オルフはあんたに引きずられて、力を使ったって言っただろう?普通、巫子ってのは竜と 正式に契約を結んで、ようやく巫子としての力を得るもんだ。それに契約があったって、 きちんと力を制御するのは難しい」
 黒曜石のような、深い漆黒の瞳に射抜かれる。
「契約もなく力を使えるほどに適性のある人間が、その使い方を知らない。竜の力は強大だ。 それが、まったく無意識に、しかも制御されることなく、引き出されたら一体どうなると思う?」
 アリアを追い詰めるかのように、一言、一言を区切って続ける。
「今回は、たまたま無事だった。でも、次に同じことがあったら?」
 これ以上、この男の目を見ていたくない。
 体ごと向きを変えて視線を逸らすと、アリアはうつむきながら足早に出口へと歩き出した。
「待てって…!」
 後ろから左腕をつかまれた。ソファに戻すように、腕を引かれる。
「…っ、放して!」
 振り向きざま、アリアは男の頬めがけて、自由な右手で思い切り平手打ちをした。
 パシィーン…と乾いた音が、広い応接室の中に響き渡る。
 まさか平手打ちをくらうとは思ってもみなかったのだろう。茫然自失といった風に、 男が打たれた頬を押さえる。
 男から取り戻した左手で、じんじんと痛む右手をさする。そして、黙ってそのまま踵を返すと、 アリアは応接室から走り去っていった。


 雲一つない青空と、その下に広がる町並み。遠くに目をやれば、青い海がどこまでも続いている。
 町の外れ、小高い丘の上に設けられた公園。立入禁止のフェンスに、穴の開いた部分があることに 気が付いたのは、もう随分と昔のことだ。そこを抜けて少し歩くと、町全体を一望できる場所に出る。
 ここは、アリアの秘密の場所だった。まだ小さな子供だった頃から、何かある度にここを訪れた。 こうして町を眺めていると、気分が落ち着くのだ。この場所はアリアの他には幼馴染が ただ一人知るだけだったから、他の人たちに邪魔されることなく、気の済むまで一人でいられた。
 草の上に膝を抱えて座り、ぼーっと景色を眺める。
 背後から微かに人の足音が聞こえて、アリアは振り返った。
「……!?」
 立っていたのは、王都から来た三人の客人の内の一人、眼鏡をかけた男だった。
 さっと立ち上がり、身構える。さっき見た時はずっと座っていたから気が付かなかったが、 男はかなり背が高い。黙って見下ろされると、それだけで圧迫感がある。
「どうしてこの場所を…」
 答えずに、男はつい先ほどまでアリアが座っていた、ちょうど隣の辺りに腰を下ろした。
「エディード様から話は聞いた」
 目線は町の方に置いたまま、ぽつりと言う。
「大水害で、両親を亡くしたって。どうして教会にいるのかと思ったけど…」
「なっ…」
「水の性を持つ青竜の国にいながら水害で親を亡くしたことで、オルフ様に複雑な感情を抱いてるって ことも聞いた」
「………」
「でも、本当は」
 ふっと、アリアを見上げる。
「オルフ様のこと、もう、憎んでなんかいないんだろ?」
 さらりと断定された。
「ただ、少し意地になってるんだよな?一度は仇同然に思っていた相手だから」
「なんであんたに、そんなことがわかるの!?」
「わかるよ」
 まるで眩しいものを見るように目を細めて、アリアを仰ぎ見る。
「この国で生活していれば、嫌でもオルフ様に守られていることを感じる。 オルフ様の優しさを感じる。たった一度の過ちを盾に取って、善良な者をいつまでも 憎んだりするようなことを、アリアはしない」
 悔しい。
 悔しいが、おそらく、この男の言う通りなのだろう。
 一年、二年と時が過ぎるにつれて、アリアは自分の中で怒りや憎しみといった感情が徐々に 薄れていくのを感じていた。教会で祈りを捧げる人や、子供たちの笑顔を見る度に。もしくは、 この国の豊かな水源によって実った作物を口にする度に。自分たちは確かに、 竜の加護を得ているのだと実感した。
 オルフはアリアの両親を守ってはくれなかった。しかし、今こうしてアリアが穏やかな暮らしを 享受できるのは、まぎれもなくオルフのおかげなのだ。
 娘である自分が許してしまったら両親が浮かばれないという思いを抱いた時もあった。しかし、 アリアは自らの父親や母親が、そんなことで悲しむような人でないことをよく知っていた。 むしろ彼らは、アリアが過去のしがらみから解き放たれたことを喜ぶに違いない。 そういう人たちだった。
 なんとなく、恥ずかしかったのだ。手の平を返したように、オルフにありがとうと言うことが。
 第三者に指摘されたことで、その事実は驚くほど素直に浸透していった。この瞬間に、 アリアはようやく、自分自身の感情を受け入れることができた。
「………」
 それが、今日初めて会ったばかりの男によってもたらされたということが、 何やら複雑な思いにさせる。
「…何よ」
 決まりの悪さから、つい憎まれ口をたたいてしまう。
「初対面の女の人を、いきなり呼び捨てするなんて失礼じゃない?」
 つんと顎を反らして、まったく見当違いの八つ当たり。
 しかし男はそれを聞くと途端に不機嫌そうに顔をしかめた。そんな表情をすると、 思いのほか幼く見える。なんとなく年上だと思っていたが、もしかするとアリアとそう変わらない 年齢なのかもしれない。
「失礼なのはあんたの方だ」
「私のどこが失礼だって言うのよ」
「失礼じゃないか。……少しも、覚えていないなんて」
 予想だにしていなかった反撃に、アリアは目を丸くした。
「……覚えてるも何も、私たち、初対面でしょう?」
「ほら、まったく思い出そうとしない。………俺は、ずっと会いたかったのに」
 ふてくされたように、愛の告白じみたことを言う。
 それがますますアリアを混乱させた。何度見ても、どれだけ見直しても、この男に会った覚えはない。 こんなことを言われる理由はないはずだ。それでも、男が嘘をついているのでないことは アリアにもわかる。
 褐色の髪は短く刈り込まれ、同色の瞳は細く切れ長だ。作り自体は綺麗だが、ややきつい感じのする顔立ちを 黒縁の眼鏡が更に堅物に演出している。
 男は片手で頭を抱えると、わざとらしく大きなため息をついた。
「まあ、昔に比べたら随分変わったとは思うけど……気付かれないくらいに変われてよかったと 言うべきか…」
 身軽な動きで、立ち上がる。
「なあ、どうして俺が、アリアを探してこの場所に来られたと思う?」
「それは…たまたま偶然、とか?」
 言いながらも、男の様子からハズレであることは明らかだ。しかし実際、それくらいしか 理由が思い浮かばない。
 男はもう一度、今度は小さくため息をついた。
「俺がここに来たのは、あんたがこの場所にいるって知ってたからだ」
 男の言っていることはおかしい。そもそも、誰もこの場所のことを知らないのに、 どうしてアリアがここにいると知ることができるのだろうか。
「俺はあんたのことを知っていて、この場所のことも知っていて、何かあるとあんたが必ず ここに来ることも知ってる。……これでも、まだわからないか?」
 物わかりの悪い子供に対してするように、両手を腰に当ててアリアを見下ろす。
 アリアの知り合いで、この場所を知っているのはただ一人。ここにアリアを探しに来られる人間は、 一人しかいない。
(だけど…)
 その人はいないのだ。
 どれだけ思考をめぐらせても、そこで振り出しに戻ってしまう。
「時間切れだ。………正解、教えてやるよ」
 やれやれと首を振りながら、眼鏡の奥の瞳がひどく懐かしげに微笑んでいる。
「俺の名前はカイ。カイ・ロクスウェルだ」

 それは、小さな頃に別れたきりの、幼馴染の名前だった。






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