「それでは、カイ様。失礼致します」
 手際よく紅茶を淹れて、深々とお辞儀を残して去っていくメイドの後姿を見送る。部屋を出るときに 振り向いた一瞬、その瞳に好奇心が閃いたように見えたことも、閉ざされた扉の向こう側から何やら きゃいきゃいと黄色い声が聞こえたことも、おそらくアリアの気のせいではないだろう。
 広い屋敷。そこで働く人たちは皆、きちんと教育され礼儀正しく振舞っていたが、やはり自分たちの 主人の孫息子が、女連れで帰ってきたとあってはどうしても気になるのだろう。不躾な視線にさらされる ことこそなかったが、年若いメイドなどは特にそわそわして見えた。
 アリアは紅茶のカップを手に取ると、一口含んだ。芳醇なその香りを味わいながら、ぐるりと部屋を 見回す。
 屋敷と同様に広い室内は、あまり物が置かれていないせいで余計に広く感じられる。最低限の家具の 中に、あらゆる私物がきちんと整理整頓されているのだろうということが、中を見ずともわかる。 主の性格をよく反映した、カイらしい部屋だとアリアは思った。
 カップをソーサーに戻して、今度は小さな籠に盛られたクッキーに手を伸ばす。
「…これ、エレナおばさんが焼いたクッキー?」
「多分。………ホーキンスさんがいたからな」
 ぽつりと付け加えられたカイのつぶやきを聞いて、アリアはつい先ほど出会った男を思い出した。
 ホーキンス・レニ。王国騎士団の部隊長を務める実力者で、契約の儀にも列席していたらしい。 その時に、アリアの姿を見たのだそうだ。
 そしてホーキンスにはもう一つ別の肩書きがあった。
 ホーキンスはエレナの、幼馴染なのだという。
「こっちに来て、まだわからないことだらけだった俺を、何かと気にかけてくれた人だったんだ」
 過去形で話す、カイの表情が気になった。
 玄関先で遭遇した後、アリアとカイ、エレナ、ホーキンスの四人で客間に移動し、互いに自己紹介と 簡単な近況報告をしていた時にも感じた違和感。話を聞く限り、ホーキンスはとても親しみのある 人柄らしい。ほんの少し話をしただけのアリアも、ホーキンスに対して良い印象を抱いた。
「初めて剣の振り方を教えてくれたのもあの人だった」
 ホーキンスについて語るカイの口調からも確かに、過去を懐かしむような、愛しむような思いが 伝わってくる。
 しかしそれとは裏腹に、カイがホーキンスを見る瞳には何か複雑な色が見え隠れしているように 思えた。そしてそれは、ホーキンスも同様で。話しかけようとしては、言葉を飲み込む。カイが自室に 行くと言って席を立つまでの間、ずっとそんな様子だったのだ。
「………」
 あえて言葉を挟まず、カイが話そうとするのをアリアは待った。離れていた七年の間にカイに何が あったのか。問い詰めたい気持ちを抑えて、虚空をにらみつけたきり黙りこんでしまったカイをただ 見つめる。
「……ひょろひょろの子供だった俺が、一国の騎士を相手に剣を教えて欲しいなんて、今から思えば 一笑に付されてもおかしくないことだ。でもあの人は、俺を笑ったりしなかった。強くなって、大切な ものを守りたいんだ、なんて言った俺に、色々なことを教えてくれた」
 本当に、世話になったんだと、やはりカイは過去形で語る。
 カイはクッキーを一つ手に取ると、そのまま口に運ぶことなく手の中で遊ばせた。涙型のアーモンドが 一粒のったそのクッキーを、アリアもよくお裾分けにもらったのを覚えている。
「…昔は、俺や父さんや、アリアのためにいつも母さんはクッキーを焼いてた。だけど今、母さんが クッキーを焼くのはあの人の……ホーキンスさんの、ためなんだ」
 ぱっと口の中にクッキーを放り込む。
 『ホーキンスさんがいるからな』。先ほどのカイの言葉が、重要な意味を持って記憶によみがえる。
「母さんとホーキンスさん、お似合いだっただろ?」
「え?うん…。仲良さそうだとは思ったけど…」
「………ホーキンスさんは、母さんの幼馴染で。母さんのことが好きなんだ」
 さらりと言われて、一瞬聞き逃しそうになる。
「…っえ!?あの二人って、そういう関係なの?」
 七年前に亡くなったカイの父親、つまりエレナの夫は貿易船の船員をしていた人だった。今思えば、 二人は仕事の関係で出会ったのだろう。日に焼けた肌と、背が高くがっしりとした体躯のいかにも 船乗りといった風体。家にいることは少なく、アリアもたまにしか顔を合わせることがなかったが、 よく笑う、明るい人だったような気がする。思い出す限り、ホーキンスとはまったく別のタイプだった。
「再婚とか…?」
「いや、それはまだない」
「結婚を前提としたお付き合いを?」
「……多分、な」
「へぇー…」
 はぁ、とかへぇ、とか。そんな意味のない相槌しか出てこない。それくらい驚きだった。
 しかし同時に、嬉しくもある。
 夫を亡くしたエレナは表面上はいつも通りの様子だったが、実際は、とても悲しんでいたのだろうと 思う。当時のアリアは気付くことができなかったが、今ならわかる。家族を失うことのつらさも、それを 押し隠して、気丈に振る舞っていたエレナの強さも。
 そんなエレナを、傍近くで支えてくれる人がいる。そのことが、アリアは自分のことのように 嬉しかった。
「すごいじゃない。エレナおばさんに、おめでとうって言わなきゃ」
 思わずテーブルの上に身を乗り出したアリアを避けるように、カイはふっと目を逸らした。視線の先を 追いかけるように覗き込むと、今度は俯いてしまう。
「カイ?」
「………そう、だよな。めでたいことなんだよな…」
 非常に歯切れが悪い。
 長い長いため息をついて、それからカイは両手で頭を抱え込んでしまった。
「………ねぇ、カイ。ホーキンスさんと何かあったの?」
 堪え切れず、とうとうアリアはそう切り出した。
「なんだか変だよ。ホーキンスさんと顔を合わせてから、ずっとおかしい」
 お節介かもしれないと思う。問いただすことはするまいと考えていた自分はどこに行ってしまったのか とも思う。しかしもう、アリアは自分を止めることができなかった。
「私は、カイが何を考えているのか知りたい。カイのこと、もっと知りたいの」
 二人の間に置かれた、七年の歳月という一線。それをアリアは、一気に飛び越えた。

「……アリアの、そういう真っすぐなところ」
 しばらくの沈黙を置いて。
 感情のままに踏み込みすぎてしまったかと、心配と緊張がアリアの心の中に渦巻いてきた頃、カイは 俯いていた顔を上げ、ぽつりとつぶやいた。
「すごく好きだ。うらやましい」
「…ありがと。でもカイだって、ひねくれてないと思うよ?」
 教会で、たくさんの子供たちを見てきたからこそ余計にそう思う。周りの環境がよかったのか、 それともカイ自身の性格ゆえかはわからないが、素直で優しいところは昔と変わりなく感じる。 あまり自分を表に出す方ではないためわかりにくい部分はあるが、少なくともカイに、アリアを うらやむ必要があるとは思えなかった。
「俺は駄目だよ。いつまでも馬鹿で、臆病な子供のままだ」
 微かに浮かんだ笑みは、自身に対する嘲笑か。
「裏切られたって、思ったんだ」
 父親とは別の人間に思いを寄せるという、エレナの裏切り。その心変わりを受け入れることが できなかった。
 しかしそれ以上にカイは、ホーキンスのことが許せなかったのだと言った。
「俺に優しくしてくれたのも、剣を教えてくれたのも全部、母さんに近付くためなんじゃないかって、 そう思った」
 そしてカイは、ホーキンスから逃げたのだ。
「士官学校で寮に入って、休みの時も訓練所に入り浸って。帰る暇もないって言い訳ができるくらいに 毎日、訓練に打ち込んだ」
 そのおかげで、今では青竜騎士団の一員だとカイは肩をすくめてみせた。
「……今でも」
「うん?」
「今でも、ホーキンスさんに裏切られたって、そう思ってる?」
「………」
 眼鏡を外し、目を閉じる。自分の内に耳を傾けるような仕草。そしてカイは、ゆっくりと首を振った。
「子供だったんだ。ただ自分のことばかりを考えて。自分が一番、二人に愛されているんだって、 多分どこかで考えてた」
 勝手に裏切られたと思って。
 勝手に気まずくなって。
 勝手に、ホーキンスを避けてきた。
「仲直り、すればいいじゃない。本当はカイもそうしたいんでしょ?」
 ホーキンスへの誤解はもうカイの中にはないのだから、二人の関係を妨げるものはないはずだ。
 しかしアリアが仲直りを口にした途端、カイは盛大に顔をしかめた。
「…それができないから、家に帰りたくないんじゃないか………」
 大の男がひどく情けないことを言う。凛々しい眉が八の字に垂れて、表情までもが情けない。
「今更、どんな顔して何を話せばいいのかわからないんだ」
「………変なとこばっかり、無駄に大人なんだから」
 こんな時、素直に謝ることができないのが大人だ。子供の方がむしろ、変にこだわることなく仲直り することができる。
 仕方がないな、などと言いながら、どこか嬉しさを感じている自分にアリアは気が付いていた。
 再会を果たして以来、弟分であるはずのカイにアリアはずっと守られてきた。だから、こうして自分が アドバンテージを握れることがあるのが、たまらなく嬉しいのだ。
「私、今日はもう帰るね」
「アリア?」
「エレナおばさんと、ホーキンスさんに挨拶するから一緒に来てくれる?」
「…あ、ああ」
 突然、何を言いだすのかと目を瞬かせるカイを置いて、さっさと席を立つ。早く早くと急かして、 ようやく先導に立ったカイの後ろについて歩いていく。その間、もの問いたげなカイの視線を幾度も 感じたが、アリアはあえて気が付かないふりをした。一言も会話を交わさないまま、つい先ほど 辞したばかりの客間に到着する。コンコンとノックをして中に入ると、最後に見たときと同じように ソファに並んで座っていたエレナとホーキンスがそろって振り向いた。
「あら、アリアちゃん。どうしたの?」
「帰る前に挨拶をしようと思って」
「もう帰るの?まだ、来たばっかりじゃない」
「ちょっと、用事を思い出して…」
 不思議そうに首を傾げて、どこか残念そうな表情のエレナに少し申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい、エレナおばさん。時間ができたらまた来ます」
 そう言うとエレナは、アリアの手を両手で包み込むように握って、約束よ、と笑った。
 そんなエレナに頷いて返し、今度はホーキンスに向き直る。
「ホーキンスさん。これから少し、お時間いいですか?」
「…構いませんが?」
「ありがとうございます」
 怪訝にしつつも快く了解してくれたホーキンスに、軽く頭を下げて感謝の意を表す。
「お話したいことがあるんです。………カイが」
「なっ…!?」
 部屋の入り口付近で傍観していたカイが、突然出てきた自分の名前に驚いたように声を上げるのが 聞こえた。陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせるカイを、わざとらしくにっこり笑って手招き する。それでもカイは、一向にその場から動こうとしない。もしくは、動くことができないのか。
 無理もないか、と内心ぺろりと舌を出しながら、アリアは呆然としているカイに歩み寄った。カイの 腕を引っ張って少し屈ませ、自分も背伸びをしながら、高い位置にあるカイの耳元に囁く。
「ホーキンスさんと、ちゃんと仲直りするのよ?」
「アリアっ…」
「カイが思ってること、そのまま話せばきっと大丈夫だから」
 励ますようにぽんぽん、とカイの背中を叩く。
「それじゃあ失礼します。お邪魔しました」
 くるりと振り返り会釈する。
 顔を上げると、エレナと目が合った。
「待って、アリアちゃん。私も行くわ」
 エレナが小走りに寄ってくる。
「竜の巫子様を一人で帰らせるわけにはいかないもの。うちの者に送らせるから、途中まで一緒に 行きましょう」
 話し終えるのを待たずに、アリアの手を引いて歩き出す。
「カイ。ホーク。二人はゆっくりしていてちょうだい」
 そして有無を言わせる暇もなく、エレナはカイとホーキンスの二人を残して問答無用で客間の扉を 閉ざした。
「………」
「……ふぅ」
 ばたん、と扉が閉まる音を背中に聞きながら、エレナが一息吐き出す。
「ありがとね、アリアちゃん」
「えっ、と…」
「カイのこと。本当にありがとう」
 アリアが何を考えていたのか、どうやらすべてお見通しらしい。もっとも、あれだけ不自然に カイとホーキンスを二人にしようとしたのだから、ばれてしまっても無理はないだろう。
「お互いが意地とか、遠慮とか、そういうものばっかりで。気が付いたら、私たちじゃどうしようも なくなっていたの」
 やるべきことはただ一つ。とても単純なことなのだとわかっていても、一歩踏み出すことがどうしても できなかった。
「アリアちゃんが来てくれてよかった」
 暖かなその微笑みに。
 今日、この家に来てよかったと、アリアは心からそう思った。






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