広大な青の宮の敷地内の一区画を占める、ヴォルフハルト国青竜騎士団。 訓練所や詰め所以外に団員たちの生活する寮や食堂なども併設されており、 いつでも竜の君とその巫子を守ることができるようにと備えられている。
 その一角、青竜騎士団団長の執務室にアリアはいた。
 カイに会いに行くと決心したはいいが、よく考えたらアリアはカイが普段、 どこで何をしているか知らない。更に騎士団は、青の宮の警固も務めているため、 アリアが休みであってもカイの方がそうでない可能性もあった。そこでシェラザードに相談して、 まずは団長であるギルフォードの元を訪ねてきたのだ。カイの予定と居場所を聞いて、 差し支えなければ案内をしてもらおうという思惑だった。
「カイなら、ちょうど今日は非番の日だぞ」
 大きな机に向かって書き物をする手を止めずにギルフォードが答える。 流暢な字体でサインを入れて、またすぐに次の書類に向かう。
「ちょっと待ってろ。今、一段落したら案内してやるから」
 ギルフォードが快く案内役を引き受けたのを確認して、シェラザードがでは、と頭を下げた。
「私は失礼致します。ギルフォード様。アリア様をお願い致します」
「ああ。ご苦労だったな、シェラザード」
 きびきびとした動作で颯爽と歩く後姿は、相変わらず格好いい。女官の制服よりも、 騎士たちの着ているものの方が似合いそうな気さえしてくる。
 冗談混じりにそれを言うと、ギルフォードは事も無げに応じた。
「シェラザードは、元々は武官の出身だからな。その頃の癖が抜けないんだろう」
 当たり前のように言い、そのまましばらく書類を書き進めて、ようやくギルフォードがはた、 と手を止める。
「もしかして、初耳だったか?」
「初耳だよ…」
 他の女官たちとはどこか雰囲気が違うとは思っていたが、まさかそんな理由があったとは。
「でも、それだったらどうして女官になったの?」
 武官が女官に転向するなど、そうそうあることではないだろうと思う。素朴な疑問だった。
「最近は女の巫子が続いたからな。護衛が男だけだと、色々と支障をきたすんだ」
「支障って?」
「武装した男たちに寝所に入られたりするのは、いくらなんでも抵抗があるだろ?」
「………」
 確かに嫌かもしれない。我儘だとは思うが、あまり歓迎したい事態ではない。
「常に傍近くで巫子を守れる人間が必要だろうってことで、シェラザードに白羽の矢が当たったんだ」
 なるほどと納得する一方で、不思議に思う部分もあった。この青の宮で、騎士たちに守られて、 シェラザードに守られて。そこまでしなければならないほどの危険が、一体どこにあるのだろうか。 過去の大戦を経て、四国はお互い争わない旨の協定を取り交わしている。 青竜ヴォルフハルトの加護の下、国内の情勢も安定しているはずだ。 ここまで厳重な護衛体勢を整える必要があるようには思えなかった。
「最悪のケースが想定されているんだ。竜も巫子も、万が一があっちゃいけない存在だからな。 陛下も言っていただろ?失われれば、国が乱れる」
 三年前の、大水害があった日のことをアリアは今でも覚えている。いや、忘れようとしても、 忘れられないのだ。いつまでも記憶の片隅に、ひっそりと根を張っている。
 あれが国が乱れるということなのだとしたら、それは絶対にあってはならないことだ。
「よし、終わりだ」
 最後の一枚にさらさらっとサインして、ギルフォードが立ち上がる。 書類の束をまとめて腕に抱えると隣室へ向かった。形だけのノックをして、 返事を待たずに中に入る。少し悩んで、アリアはギルフォードの後に続いた。
「セイグラム。少し、部屋を空けるぞ」
「どうかされましたか?」
 書類を受け取りながら、セイグラムと呼ばれたその人はギルフォードと、 後ろに所在なく立っているアリアを見比べた。
 まなじりの上がった鋭い瞳は、澄んだ湖面のようなアイスブルー。冷たいその色彩に見つめられて、 アリアは思わずひるんだ。
「アリアに、中を案内してくる」
「案内なら私が代わりに致しますが?」
「いい、俺が行く。少しは気分転換させてくれ」
 わかりましたと頷いて、セイグラムはあっさりと引き下がった。その代わりというように、 机の上に積まれた新しい書類の束に手を置く。
「案内が終わりましたら、またここに来て下さい。新しくお渡しするものがありますので」
「………わかった」
 真顔のセイグラムと、その手の下の書類とを見比べて、少し沈黙した後でギルフォードは、 ため息と共に降参するように両手を上げた。
「寄り道しないですぐ戻る」
「そうして頂けると助かります」
「…行くぞ、アリア」
 初めから終わりまで変わらない表情のセイグラムにくるりと背を向けたギルフォードに肩を抱かれ、 促されて、アリアは一つ会釈してそれに倣った。
 目をそらす直前の一瞬、セイグラムの瞳が微笑んだようにアリアには見えた。


 セイグラムの部屋を出て、そのまま無言でしばらく歩く。近くの角を曲がったところでようやく、 ギルフォードは足を止め、息を吐いた。アリアの肩を抱いたままであるのに気が付いて、 慌てて手を離す。
「悪い」
「ううん。別にいいけど…」
 言葉の先は続けずに、首を傾げて、視線で問いかける。
「あー、今のはセイグラム。青竜騎士団の副団長で、………優秀な奴だ」
 ぽつりと、付け足された言葉はひどく弱々しく聞こえた。アリアの方を見ようとせずに、 微笑むらしきものを顔に浮かべる。その表情には一度だけ、見覚えがあった。『ギル』と呼べと、 アリアに言ったあの時。心の奥底に押し込めて、ひた隠しにしていたものがふと顔を覗かせたような、 儚さを内包した微笑み。
「……ギルは、セイグラムさんが嫌いなの?」
「それは違う」
 間髪入れずに否定される。
「俺があいつを嫌うはずがない。………逆、だ」
 吐き捨てるようにつぶやく、ギルフォードに自嘲が混ざる。
「セイグラムは本当に優秀なんだ。俺よりも年上で、経験豊富で、頭も良い。 剣の腕だって、三本に一本はとられる」
 アリアはただ耳を澄ませた。ギルフォードが何を考え、何を言おうとしているのか感じ取ろうとする。
「本当は俺の副官なんてやるような奴じゃない。あいつの方が団長になるべきだったんだ。 俺が、陛下の息子だったから、逆になった。だから………俺は、セイグラムに疎まれても仕方がないんだ」
 本当にそうなのだろうかと、アリアは思う。
 セイグラムは、ヴォルフハルト国第三王子であるギルフォードを疎んじているのか。しかし先ほど、 アリアが見たセイグラムの表情はむしろ。

「…こんなこと、話してる時じゃなかったな。せっかくの休日が台無しだ」
 無造作に髪をかきあげた、ギルフォードの声に思考が引き戻される。
「変なこと言って悪かったな。忘れてくれ」
 先に歩き出したギルフォードの背中をアリアは追いかけた。隣に並んで、見上げる。
「私は、ギルのこと好きだよ」
「……え?」
 ギルフォードが立ち止まる。その顔は、ひどく無防備に見えた。
 アリアはギルフォードを追い越すと、正面からその目を見つめた。
「だからギルも、私のこと頼っていいよ。こんな風に、話を聞くくらいしかできないかもしれないけど」
「………」
 アリアは真剣だった。
 付き合いはまだ浅いが、ギルフォードはアリアにとって大切な友人となっていた。 だから、できることなら力になりたいと、心からそう思ったのだ。
 しかしギルフォードはなぜか、深く深くため息をついた。何か考えるように眉を寄せ、 しみじみと言い聞かせる。
「アリア。そういうことは、あちこちで言うなよ」
「…何それ」
「とにかく、やめとけ」
 まったく意味がわからない。
「ほら、行くぞ。カイと出かけるんだろ?」
 抗議をこめてにらみつけるアリアをひらりとかわして、 ギルフォードは早足にその場から逃げていった。


 一週間が経過した今でも、アリアはまだ青の宮の全貌を把握しきれていなかった。 特に青竜騎士団の敷地に関しては、足を踏み入れるのも初めてだ。
 宮殿内の他の場所に比べると少しばかり無骨な印象を受ける広い廊下を、 ギルフォードについて歩いていく。
「今の時間だったら、おそらく他の非番連中と一緒にまだ食堂でたむろしているはずだ」
 果たして、大きな両開きの扉をくぐった先の、食堂らしき広間にカイはいた。 同じ青色の制服に身を包んだ男たちと併せて四人。テーブルを囲んで、なにやら談笑している。
「カイ・ロクスウェル。面会だぞ」
「…ギルフォード様っ」
 入り口の方を向いて座っていた二人が先に気が付いて、立ち上がった。次いでその対面、 食堂に入ってきたアリアたちに背を向ける格好で座っていた一人と、カイが振り返りざま立ち上がる。 そして、ギルフォードと共にそこにいるアリアを見て、目を見開いた。
「アリア…」
「アリアって…巫子様?」
 カイのつぶやきに、周りの男たちの方が騒然とする。アリアを見て、 それからお互いの顔を見合わせて、そろって敬礼する。
「あの…。そんなに、畏まらないで下さい」
「だ、そうだ。そんなに固くなられたら世間話もできない。普通にしててくれ」
 アリアとギルフォードに重ねて言われ、戸惑いながら男たちは手を下ろした。 しかし下ろした手の置き場がわからない様子で、ひどく居心地が悪そうだ。
 その様がなんだかおかしくて、アリアはくすりと笑った。その場の視線が自分に集まるのを感じたが、 一度訪れた笑いの衝動はなかなか治まりそうにない。一人笑い続けるアリアを呆気に とられたように見つめていた男たちだったが、やがて緊張の糸と共にその表情がへらっ、と緩んだ。
「はじめまして。アリア・ニールセンといいます」
 ようやく発作が治まってきたところで、目尻に浮かんだ涙を拭いながらぺこりと頭を下げる。
「俺…いや、私はフォルテといいます」
「ノアと申します」
「ヒースクリフと。…ところで、巫子様はなぜこのような所に?」
 一通り挨拶と自己紹介を交わす。それぞれ顔立ちも背格好も異なっているが、皆一様に年若く見えた。 カイと同期か、似たような年代なのだろう。最後に名乗った黒髪の、ヒースクリフが アリアとギルフォード、そしてカイとを代わる代わる見比べた。
「カイに会いにきたんです」
 ヒースクリフを見上げる。
 三人が、一斉にカイの方へと振り向いた。
 当のカイは微かにうつむき、左手で顔の上半分を覆うようにしていた。そのせいで、 もの問いたげな同僚たちの視線にさらされたカイが、どんな表情をしているのかアリアには うかがい知ることができない。
「カイに…?」
「今日は非番だって聞いたんですが…カイをお借りしてもいいですか?」
「問題は、ありませんが……」
 煮え切らない言葉尻に込められた意味を察して、アリアは先回りをした。カイの右腕をつかんで引き寄せ、 自分の腕を絡めるようにする。
「カイは、幼馴染なんです」
 ね、と。カイを見上げて、アリアは小首を傾げてみせる。
 そこで初めて、アリアはカイの耳たぶが真っ赤に染まっていることに気が付いた。

 少しだけ、胸の奥のもやもやがはれたような気がした。






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