空気が重い。
 呼吸をすることさえ憚られるような緊張感。
 嵐が過ぎ去るのを祈るのにも似た気持ちを抱きながら、ひたすら小さくなっていたアリアは恐る恐る、 顔を上げてみた。
「………」
 数分前に見た時と、寸分違わぬしかめっ面。眉間に盛大にしわを寄せたアスランが、 凶器になりそうなほどに分厚い書物のページをめくる。
「あの……」
「やる気のない人間にわざわざものを教えてやるほど、僕は暇じゃない」
 取り付く島もないとは、正にこのことだ。
 見かねたように、アリアの背後に立つギルフォードが口をはさむ。
「時間に遅れたのは案内役の俺に責任がある。そろそろ、アリアを許してやってくれないか」
「本人にその気があれば何とでもできたはずだ。外出に浮かれて、時間を忘れたのは巫子自身。 巫子にとって訓練など、その程度のものだったということだ」
 耳が痛い。
 やましいところのあるアリアは、綺麗に掃除された床に視線を落とした。
 この事態には原因がある。いたって単純で、だからこそ、たちが悪い。先ほどギルフォードが 口にした通り、アリアは午後の、アスランとの約束の時間に遅刻したのだ。それも、何かの事故や 足止めがあったという訳でもなく。ただ単に、町を見て回るのが楽しくて、時間に気を配るのを 怠ってしまったのだった。気が付いた時には、どんなに急いでも間に合わない状況だった。 そして予想通りにアリアは遅刻し、今こうして、アスランの冷ややかな怒りに身をさらしている という訳だ。
「…浮かれていたのは事実です。言い訳の言葉もないし、やる気がないって思われても仕方ないのかも しれません」
 アメシストの瞳はちらりともアリアを見ようとせず、ひたすらに同じ速度で上質紙に刻まれた 文字の上を滑っていく。声が聞こえていないはずはないのだが、果たして聞いているのかどうか。
「本当に、すみませんでした」
 アリアは深々と頭を下げた。例えアスランが聞いていなかったとしても、それはアリアが 謝らないでいいという理由にはならない。相手がどんな態度だろうと、悪いことをしたと思ったら 謝るのがアリアの中での常識だ。それに、そもそもすべての原因はアリア自身にあるのだ。
「………」
 淀みなく動いていたアスランの瞳が止まる。少しの間一点を見つめて、やがてぎゅっと瞼を閉じると、 こめかみの辺りに手をやって短く息を吐いた。アスランの視線が初めて、アリアをとらえる。
「………そこに座れ」
「…え?」
「座れと言ったんだ。いつまでそんなところに立っているつもりだ。僕の気が変わらないうちに、 早くするんだな」
 読んでいた本を片手に抱えて、部屋の隅にある本棚に向かう。その後姿は変わらずアリアに 無関心だったが、それでも、今の台詞は譲歩してくれたということなのだろう。
 アスランが背を向けているのをいいことに、アリアは振り返り、ギルフォードに小さく ガッツポーズをしてみせた。


「お前、馬鹿か?」
 馬鹿という。それは、たった二文字のいたってシンプルな単語だが、驚くほど直球でアリアの心に 深く刺さった。
「初心者向けの一番簡単な教本だぞ?」
 とんとん、とアスランはテーブルの上に広げられた本を人差し指で叩いた。先ほどまでアスランが 読んでいたものの、三分の一にも満たない薄さ。まずはそこに記された魔法を一つ実践してみろと 言われたのだが、どうにもうまくいかない。
「手順を守れば、子供でも扱えるレベルだ」
 文字の上をなぞりながらアスランがその言葉をつむぐと、淡く黄色に輝く光がぼうっと 浮かびあがった。続く言葉に導かれるように、光は収縮すると、こぶし大の球体に形をとどめた。
「すごい…」
 こんなに間近で魔法を見るのは初めてだった。
 アリアが控えめなその輝きに見とれていると、アスランがふんと鼻を鳴らした。
「こんなもの、魔法使いでなくとも作れる」
「………」
 そんなことを言われても、できないものはできない。
 アリアはそっと、向かい側に座るアスランの顔を盗み見た。整った顔立ちは相変わらず不機嫌な 表情に彩られており、まるで存在自体を拒絶されているような、そんな気さえしてくる。あの晩アリアが 出会った男は、やはり不機嫌そうな様子ではあったが、ここまで敵愾心あらわな人間ではなかった。 もしかすると、何千分の一の確率で別人なのではないかというくらいに思ってしまう。
 勇気を振り絞って、アリアはアスランに話しかけた。
「あの、私のこと…覚えてませんか?城の中で道に迷っていたところを、助けて頂いて。 今度会うことができたら、あの時のお礼が言いたいって、ずっと思っていたんです」
「………」
 否定も肯定もしない、沈黙に不安になる。
(まさか、本当に人違いだった、なんてことはないよね。この前会った時、 私のこと知ってる感じだったし…)
 眉間のしわが深くなる。アスランはまた、わかりやすく視線をそらすと、絞り出すようにして つぶやいた。
「……城で道に迷うような馬鹿が、竜の巫子だとは思わなかったんだ」
 思わず耳を疑った。
 それは、アリアが竜の巫子だと知っていたら、助けなかったということだろうか。
 何か言おうとするのだが、うまく言葉を発することができない。喉が渇く。砂漠に雨粒が 染み込んでいくように、言葉が喉の辺りに消えていく。
「先に言っておくが、僕は、お前が嫌いだ」
 一言、一言を放り投げるように。そう口にする間も、頑なにアリアを見ようとしない。 返事などまったく必要としてないのだと、はっきりとわかる。追い詰められていくアリアに、 更なる追撃がかけられる。
「お前とこうして向かい合っていることが嫌でたまらない」
「そんな…」
 最早、意味のない言葉しか思いつかない。
 アリアがアスランと顔を合わせ、言葉を交わしたのは今日を含めてたったの三回だ。まだ、 その程度の関係しかない。なぜアスランがこんなにも、自分を嫌うのかアリアにはわからなかった。
「………安心しろ。自分の役目はきちんと果たす。お前にその気がある限りは、魔法を教えてやる」
 アリアの沈黙を何ととらえたのか、アスランが見当違いのフォローを入れる。
 さぁ続けるぞ、と促すアスランに、どんな返事を返したのか覚えていない。
 その後の訓練は言うまでもなく、惨憺たる有様だった。


「……ごめんなさい、わかりません」
 机の上の両手をぎゅっと握り締めて、アリアはうつむいた。ため息をつかれるだろうか。 なぜこんな簡単なことができないのかと、形のいい眉をひそめて、アリアを見下ろしているのでは ないだろうか。そう考えると、アリアは顔を上げることができなくなった。
 しかし、そんな予想に反して、アリアの耳に届いたのは優しい声だった。
「わかりました。じゃあ、初めからお教えしましょう」
 その柔らかな響きに励まされて、アリアは思い切って顔を上げた。アリアと目が合うと、 草色の瞳がにこりと微笑む。
「…怒らないんですか?」
「怒る?一体どうして?」
「さっきからずっと、わかりませんばっかりで。呆れてますよね」
 自分で言っておきながら、どんどんへこんでいく。心に重さがあるのなら、 今のアリアの心は間違いなく超重量級だろう。
「巫子様は、そんなことを考えていたんですか」
 真面目な人だと、ラーイが笑う。
「怒りませんよ。呆れもしません」
 傍らに積んである本を手に取っては、ぱらぱらと目を通す。そんな動作を繰り返しながら ラーイは続けた。
「あなたはまだ巫子になったばかりですから。知らないことや、わからないことがあって当然なんです」
 何冊か選り分けた本を机の上に広げる。つられて目を落とすと、どれもふんだんに絵図が使われており、 内容についてほとんど知らないアリアの興味を絶妙にくすぐった。
「大事なのは、知ろうとすることです。自ら学ぼうとしている人に対して、怒ったり呆れたりなんて しませんよ」
 言い聞かせるようなその話し方は覚えがあった。とても好ましく、少し懐かしい感じ。 ラーイと話していると、度々こうした感覚になることがある。なぜなのか、理由にはすぐに思い至った。
「エディード様に似てるんだ…」
「エディード様?」
 書物の中身を指し示して、講義を始めようとしてくれていたラーイが動きを止め、微かに首を傾げる。 アリアに向けられた瞳が、問いかけの色を帯びているのが見えた。
「あ…エディード様っていうのは、私が生まれた町で教会の責任者をしている人なんです。 両親を亡くした私を引き取ってくれて、すごく、優しくしてくれて…」
「その人と、私が似ている?」
「はい。話し方とか、雰囲気とか」
 アリアの良いところも悪いところも、エディードには全部お見通しだったのではないかと アリアは思う。そして、そのすべてを受け入れてくれた。エディードがいてくれたからこそ、 アリアは両親を失った悲しみから立ち直っていくことができたのだ。アリアにとってエディードは、 とても大切な人だった。
「私の、大好きな人なんです」
 勢いのままにそこまで言って、ふと我に返る。なんだかとても恥ずかしいことを言ってしまったような 気がする。これではまるで、ラーイに告白しているみたいではないか。
 せっかく優しい、いい人なのに、変に思われてしまったのではないかとラーイの顔をそっと窺い見る。
 しかしアリアの心配をよそに、ラーイは先ほどまでとまったく変わらない、むしろそれ以上に 暖かな笑顔を浮かべて、おどけた仕草で礼をしてみせた。
「巫子様にそんなことを言って頂けるとは、光栄です」
 やはりラーイとエディードは似ていると、改めてそう感じた。ラーイと向かい合っていると、 エディードの庇護下にあった時のことを思い出して、ひどく安心する。
「ごめんなさい。他の人に似てるなんて、褒め言葉じゃないですよね」
「いいえ、嬉しいですよ。私のことも好ましいと思って下さっている、ということですから」
 さらりと、当たり前のように言われて、赤面した。
 確かにラーイの言う通りなのだが、そんな風に本人の口から言われてしまうと非常に照れ臭い。
「………」
 否定することも肯定することもできず、ただまごつくアリアを見て、ラーイはもう一つ笑みを深くした。






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