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 契約の儀を終えて、初日。
 これからおよそ一月の間、竜の巫子として様々なことを学ぶのだという、その一日目。 アリアはどきどきと緊張しながら執務室の扉をノックした。どうぞ、と声が返ってくるのを待って、 ノブに手をかける。
「失礼します……?」
 軽くお辞儀しながら中に入り、頭を上げたところで思わぬ人の顔が目に入ったせいで、 語尾が疑問系になってしまった。手前のソファにどっしりと腰を据えて、振り返ったギルフォードが 片手を上げて挨拶する。
「おはよう」
「おはよう……って、どうしてギルがいるの?」
 『午前の時間は主に私がお相手します』。昨日確かにそう言ったはずのラーイは、 アリアの問うような視線と目が合うと、にっこり笑って立ち上がった。
「おはようございます、巫子様」
 ギルフォードの隣のソファを薦められて、戸惑いながら腰を下ろす。二人の正面に、 向かい合う形でラーイも席に着いた。
「今日は、巫子様にはこのクィンベリルの町を見て頂きます」
「それって…」
 観光ですか?
 思わず続けてしまいそうになり、慌てて口をつぐむ。しかしラーイには、アリアの考えることなど お見通しらしい。
「まぁ、身も蓋もない言い方をすれば観光ということになります。でもこれも、きちんと 意味のあることなんですよ」
 少しばかり苦笑の混ざった穏やかな語り口調に、アリアは頬が赤くなるのがわかった。 なんだかエディードに悪戯を見咎められた時のような、変に気恥ずかしいような、何とも言えない 気分になる。
「巫子様には、この国や、そこで生活する人たちの顔を知って欲しいんです。 机に向かって座っているだけではわからないことはたくさんありますし、そういったことの方が、 むしろ大切だと思っていますから」
 アリアは多くのことを知らない。自分自身でも、その自覚はあった。生まれ育った町から このクィンベリルまでの、たった十日間ほどの旅の中ですら、どれだけの発見があったことか。 そして同様に、クィンベリルという町自体に対しても無知だった。王都など人の噂に聞くくらいで、 実際に見て知っているのは、町の門をくぐってから城に到着するまでの、ほんの短い行程だけだ。 頼みの綱である噂話さえ、アリアはあまり詳しくなかった。興味がなかったのだ。だから、 そういった類の話をそれほど真剣に聞かなかったし、記憶にも残らなかった。すべて自業自得だ。
 アリアは以前、ギルフォードと交わした会話を思い出していた。まったく見ず知らずの人間を 助けようなどと思えなくていいのだと。少しずつ、守りたいと思えるようになればいいのだと。 ギルフォードはそう言った。ラーイも、同じことを言っているのではないだろうか。今のアリアに 必要なのは、竜の巫子として特別な何かをすることではなく、自分の守るべきものたちと 知り合うことなのだと、言っているように感じた。
「だから、今日はクィンベリルの町を見て、知ってきて下さい」
 またもアリアの心の動きを読んだように、満足そうにラーイが笑う。そんなにわかりやすく顔に 出てしまっているのかと、思わずアリアは自分の頬を撫でた。
「ギルフォード殿には巫子様の護衛を兼ねて、町の案内役をして頂こうと思いまして、わざわざ ご足労願いました」
「と、いう訳だ」
 ずっと黙って話しに耳を傾けていたギルフォードが、そこでようやく口を開いた。にっと唇の端を 持ち上げて、なんだかとても楽しそうな表情。勢いよく立ち上がると、アリアの目の前にさっと手を 差し出す。
「あんまり時間ないからな。さっさと行くぞ」
「昼食は自由にとって頂いて大丈夫ですよ。アスラン殿が待っていますから、午後の時間にはきちんと 戻ってくるようにして下さいね」
 急かすように見つめられて、咄嗟にギルフォードの手をとる。
「よーし、行くぞ」
「ギルフォード殿。巫子様をよろしくお願いします」
「ああ。わかってる」
 背中でラーイに返事をして、そのままずんずんと歩いてゆくギルフォードに、引きずられるようにして 歩き出す。いってらっしゃいと言うようにラーイが手を振るのが見えたが、それに手を振り返す余裕は アリアにはなかった。


「疲れてないか?」
 一人ベンチに腰掛けて、人通りを眺めていたアリアの目の前に素焼きのカップがすっと差し出される。 ありがとうと礼を述べて、アリアはそれを受け取った。両手で包み込むように持ち、一口含むと冷たく、 ほのかに甘い。
「果実水。嫌いじゃなかったか?」
「ううん。おいしい」
「それはよかった」
 隣にもう一人座ることができるように座り直すと、空いたスペースにギルフォードが腰を下ろした。 二人並んで、果実水を飲む。
「半日で回れるところはだいたい案内したつもりだが…どこか、他に行きたい場所ってあるか?」
 ギルフォードに訊かれて、考える。といっても、アリアは他にどんな場所があるのかすらわからないの だが。
 各所ともあまりじっくりと見ることはできなかったが、王都クィンベリルの定番観光スポットは だいたい制覇したらしい。そのおかげで、クィンベリルという町の風景にいくらか馴染むことができた。 雰囲気がわかるようになってきた、と言ったらいいだろうか。とにかく、昨日よりもこの町に親しみを 感じていることは確かだ。
「……そういえば、この町の教会はどこにあるの?」
 町を歩いている時に感じた疑問。ギルフォードの案内の下、クィンベリルの中心部をあちこち 見て回ったが、そのどこにも教会らしき建物は見当たらなかった。
 竜を祀る教会は人々の信仰の中心となるものであり、それを表すように、主として町の中心に 置かれているのだと教わったことがある。実際、アリアの生まれ育った町では住宅地の真ん中に 教会があったし、クィンベリルまでの道中に立ち寄った町でも住民たちに囲まれるようにして 建造されていた。
「ああ、そうか。アリアは知らなかったか」
 少し眉を寄せて、それからようやく得心がいったという風にギルフォードが頷く。
「知らないって……何を?」
「クィンベリルには教会がないんだ。ここは竜の君のお膝元だから、わざわざ教会を作って祈りに 集まらなくても、日々の生活における感謝や願いはそのまま伝わるって理屈でな。いわば町全体が、 大きな教会の役割を果たしている訳だ」
 町とは呼べないような小さな集落であっても、人々の祈りの場は必ず何かしらの形で存在する。 ヴォルフハルト国内で、それを持たないのは王都クィンベリルだけだと、見てきたことのように ギルフォードは続けた。
「そんなの、全然知らなかった…」
 こうして町に出なければ、訊いてみようともしなかっただろう。
「……悪い。なんか、落ち込んだか?」
 無言になったアリアを、ギルフォードが覗き込む。
「………」
 アリアはわざと勢いをつけてベンチから立ち上がった。くるりと、ギルフォードを振り返る。
「落ち込んでないよ。自分が無知なのはよくわかってるし、今更変えられないし。これから、 できることからやっていこうって決めたから」
 逆光の中に立つアリアを、ギルフォードが眩しそうに見つめる。
「ただ、もっと色々なことを知りたいなって思ったの」
「アリア…」
「…とりあえずは、これ」
 とうに空になっていた、素焼きのカップを掲げた。怪訝そうなギルフォードに首を傾げてみせる。
「どこに返せばいいのかな?」
 破顔一笑して、ギルフォードはアリアの後を追うように腰を上げた。


 太陽が中天にさしかかる頃。沿道では並び立つ屋台が食欲をかきたてる匂いを辺りにばら撒き、 通りかかる人間を誘惑している。アリアは完全に、その戦略に陥落されていた。
「ギル、ギル。あれ美味しそうじゃない?」
 よそ見をしながらギルフォードの袖を引っ張る。
「いや、あれだったら、もう少し行ったところの店の方が美味い」
 子供のようにはしゃぐアリアに嫌な顔を見せるどころか、自身もどこかうきうきと楽しそうに 雑踏の中を進む。
 屋台とは不思議なものだと、しみじみと思う。特に変わったものや珍しいものがある訳ではないのに、 なぜだかひどく購買意欲をくすぐられる。そこが、初めて訪れる場所であれば尚更だ。
「あっちのもいい匂い…」
 美味しそうな匂いのする方向に首を伸ばす。そのすぐ傍。人混みから突如として、怒号が上がる。 アリアの目の前に男が倒れこみ、それを追ってもう一人、違う男が現れる。
「何しやがんだ、この野郎!」
「うるせぇ!」
 倒れていた男が起き上がり、後から現れた男につかみかかる。二人は取っ組み合い、 要領を得ないことを叫びながら揉み合い始めた。男たちの行く先々で、通行人たちが逃げ惑う。
 見かねたアリアが何とかしようとするより先に、隣のギルフォードがすっと動いた。無造作な足取りで 男たちへと歩み寄る。そして、躊躇いなくその間に割って入った。
「…ってぇ!」
 次の瞬間、二人はギルフォードによって、後ろに手を捻りあげられていた。いつのまにそんなことを したのか、見ていたはずのアリアにもわからないほど自然な、流れるような動作。
「何が原因かは知らないが、こんなところで暴れたら周りに迷惑だろう。昼間から酒を飲むのは 構わないが、その程度の分別は残しておいてくれ」
 どん、と男二人を地面に突き飛ばす。
 突然の横槍にぽかんとした様子の男たちは、やがて格好悪く尻餅をついた自分たちの姿と、 そこに集まる人々の視線とに気がつくと、決まり悪そうにうつむきながら立ち上がった。 何事もなかったように服の埃を払い、相手を一度にらむと、それぞれ別の方向に歩き去っていった。
「さて、行くぞ」
 あっという間に喧嘩を仲裁して見せたギルフォードの方もまた、なんてことのない顔をして 戻ってきた。アリアの腕をつかみ、まだざわめきの残る人の群れの中をすり抜けていく。少し早足に、 ほとんど逃げるようにして、二人はその場から離れていった。

「どうして逃げるの?喧嘩してたのはギルじゃないし、むしろ止めた方なのに」
「今日はあんまり時間もないしな。目立つと、色々と面倒なんだ」
 まるで見てきたような物言い。心底面倒臭そうな表情に、何か嫌な経験をしたことがあるのかと 変な勘繰りをしてしまう。
 ギルフォードの横顔を見上げながら、アリアはつい先ほどの出来事を思い返した。素人の喧嘩とは 違う身のこなし。青竜騎士団団長という、その肩書きは飾りではないのだと思い知らされる。
「ギルって、本当に強かったんだね」
「………」
 ひどく微妙な表情。辛いと思って食べたものが、実は甘い甘いケーキだったりしたら、 こんな顔になるだろうか。
「…俺のこと、一体何だと思ってたんだ?」
「だって、ギルがあんな風にしてるところ、見たことなかったし…」
 恨みがましく見下ろされて、しどろもどろになりながら慌てて言い訳する。
 実際、アリアはギルフォードが武力を行使するところを今まで見たことがなかったし、それどころか、 初対面でいきなり平手打ちをしてしまったような相手だ。騎士たちを束ねる長であると知ってはいても、 目の前にいるギルフォードといまいち結びついていなかった。
「別に、弱そうだとか思ってた訳じゃないのよ?」
「………はぁ」
 重いため息が、一つ。
「わかったから、もういい。そんなに必死になられると余計にへこむ…」
 ぐしゃぐしゃっと髪の毛をかきまぜるように、乱暴に頭を撫でられる。
「ほら、アリア。俺が美味いって言った店、あそこだぞ」
 打って変わって、作ったような明るい声。立ち止まったアリアを置いてギルフォードの背中が 遠ざかっていく。
 ぼさぼさに乱された髪を手ぐしで整えて、アリアはギルフォードを追いかけた。後ろから、 その服をつかむ。
「ごめんね、ギル」
「………俺のこと、弱くないんだって、わかったか?」
 今度は小さなため息と共に、ギルフォードが歩いていた足を止める。首だけで振り返った ギルフォードに、アリアは何度も頷いてみせた。
「じゃあ、次からは、ちゃんと俺を頼れよ?」
「…え?」
 思いがけない台詞。
「さっき、喧嘩の仲裁に入ろうとしただろ?ああいう時に行動できるのは美徳だと思うが、 今回はいささか無謀だ。男二人を相手にして、何とかできると思ったか?」
「それは…」
 実のところ、あの時のアリアは何も考えていなかった。ただ周囲の人々に迷惑をかけている男たちを 見て、無意識に体が動いただけだ。具体的な策があった訳ではない。
「だから、次からは俺を頼れ」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「何のために俺がいると思ってるんだ?俺は、アリアを守るためにいるんだぞ。俺は強いから、 滅多なことじゃ怪我もしない。何かしたいと思ったら、俺を使えばいい」
 約束だぞ。
 そう囁いて、ひどく優しい瞳でギルフォードは微笑んだ。






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