あの時は暗くてよくわからなかったが、男は端整な顔をしていた。どこか少年のような面影を残した 甘い顔立ち。肩の辺りで切り揃えられた銀の髪は、アリアが羨ましくなるくらいにまっすぐで さらさらだ。瞬き一つせずにアリアを凝視していた、アメシストを思わせる紫色の瞳が揺れた。 ぎゅっと眉が寄り、不機嫌というよりむしろ、何かにひどく怒りを感じているかのような、そんな表情に なる。
「……お前が、新しい竜の巫子か」
 にらまれて、心臓がすっと冷えた。
 何か強い思いをぶつけられていることはわかる。しかしアリアは、なぜ自分がそんな風ににらまれて いるのかわからなかった。
 男は自分の腕をつかむ手を乱暴に振り払い、勢いのままに踵を返した。そのまま足早に歩き出そうと した背中を、ラーイの声が引きとめる。
「アスラン殿」
「………」
「宮廷魔法使い筆頭、アスラン・バロックワーズ殿。あなたがすべきことは何ですか?」
 声を荒げている訳ではない。脅しをかけている訳でもない。ただ静かで、穏やかなラーイの声を、 それでも男は振り切ることができない。
「あなたの役目は、誰が望んだものですか?なぜあなたは、今この場所にいるのですか?」
「……、ちっ」
 僅かな逡巡の後、男は舌打ちを一つ伴って、執務室のソファにどっかと腰を下ろした。

「さて」
 ラーイの一声が場の空気を仕切り直す。
 アリアは改めて、室内を見渡した。一人掛けのソファに座り、何事もなかったように穏やかな微笑を たたえるラーイ。ギルフォードは執務机に行儀悪く腰掛け、オルフはぴったりと寄り添うように アリアの隣に座っている。そしてラーイの隣、もう一つの一人掛けソファに座っている男、アスランは、 アリアと目が合った瞬間あからさまに視線をそらした。
「………」
 本当に、一体アリアが何をしたというのだろうか。あの晩アリアは、何か気分を害するようなことを しただろうか。思い返すが、そのような素振りは思い当たらなかった。徹頭徹尾、不機嫌だっただけだ。
「彼はアスラン殿。このヴォルフハルト国の、宮廷魔法使い筆頭を務めています」
「アスラン・バロックワーズだ」
 あさっての方向を見ながら、それでもぼそりと名を名乗る。
「アリア・ニールセンです」
 よろしく、と差し出した右手は、ものの見事に無視された。
「今後、彼が巫子様に魔法をお教えします」
 予想通りの台詞に、それでも少しばかり驚いてしまう。かなり若く見えるこの男が宮廷魔法使い筆頭で あることも、特別の教師であることもアリアにとってはまったくの想定外だ。まさかこんな風に、 運命的な再会をするとは思ってもみなかった。
「午前の時間は、竜と巫子に関することや、この国について学んで頂きます。こちらは、主に私が お相手致します。昼食と休憩を挟んで、午後からがアスラン殿と魔法の訓練になります。五日間この スケジュールを行い、次の二日間は休息日としますので、自由にして頂いて構いません。二日休んだら、 また次の五日間、という形でしばらくの間は行動して頂きます」
「しばらく……ですか?」
 小さい頃から机に向かうよりも、外で走り回ることの方が多かったアリアにとって、勉強することは 嫌いではないが、若干の苦手意識があった。
「一月後、吉日を選んで巫子様のお披露目を行いますので、とりあえずはそれまでですね」
「お披露目…?」
「国中の人々に、新しい巫子様を紹介する式典をするんですよ。クィンベリル以外の町からもたくさんの 人が訪れて、当日はほとんどお祭り状態になってしまうんですが」
 そういえば三年前、先代の巫子が就任した頃にそんな話を聞いたような気がする。当時のアリアは 竜もその巫子も興味の対象外だったし、王都は距離的にもイメージ的にも遙か遠い場所だったので、 いまいち記憶が薄い。お祭りというのは興味がないでもなかったが、それだけだ。空返事をして、適当に 相槌を打って終わりだった。
「式典の最後に、集まった人々の前で巫子としての証を示して頂くことになりますから、それまでに 基礎の部分を身につけて頂く必要があるんです」
「証を示すって………何をするんですか?」
「これをしなければならない、という決まりはないです。何でもいいんですよ。要は、竜の君の力を 扱うことができる、とわかればいい訳ですから」
 何でもいい、と言われてしまうと、かえって何をしたらいいのかわからなくなってしまう。そんな アリアの心中を察したのか、ギルフォードが助け舟を出してくれた。
「今までの傾向としては、水関係のことが多いみたいだな。雨を降らせたりとか、そういう」
「そうですね。条件的にも、ここは水が豊富ですし。何よりも相性がいい。青き竜の加護の下に復興を 遂げた土地ですからね」
 ラーイとギルフォードがくれる、あれやこれやのアドバイスをアリアは一つ一つ、心に書き留めて いった。とにかく、一つでも多くの情報が欲しかった。

 突然、それまで黙っていたアスランが立ち上がった。
「アスラン殿?」
「……部屋に戻る。もう、話は済んだだろう」
 誰とも視線を合わせようとしないアスランに、ラーイが微笑む。相手に有無を言わせない、 そんな微笑。
「アスラン殿。明日から、巫子様をよろしくお願いしますね」
「わかっている。………自分の役目を、忘れたりはしない」
 苦々しく吐き捨てて、一度も振り返ることなくアスランは去っていった。


「アリア。宮殿を案内してあげるよ」
 オルフのその一言に誘われて、アリアは青の宮の広大な敷地内を散策していた。少し前を先行する オルフに手を引かれ、後ろには、シェラザードが数歩の距離をあけて付いてきている。出くわす度に 頭を垂れる人々に一々会釈を返しながら、オルフの案内に耳を傾ける。こうして改めてみる青の宮は、 やはりアリアには果てしなく広く感じられた。頭の中に地図を描きながら、最低限必要と思われる場所の 位置関係だけでもなんとか叩き込む。道を覚える方にばかり意識を向けていたため、オルフが 立ち止まったのにすぐ気付かなかった。ぶつかりそうになって、慌てる。
 歩いてきた感じからして、現在地はおそらく宮殿の中でも外れの方のはずだ。回廊から一歩逸れれば 鮮やかな緑色の芝に覆われた土の地面が広がり、その上に敷かれた石畳が遊歩道を形作っている。 人通りはほとんどなく、今もアリアたち以外には人の姿はない。穏やかな静けさを時折、風が揺らす 葉ずれの音や鳥のさえずりが乱すだけだ。
「アリア」
 頭一つ分低いところから、オルフがアリアを見つめる。満月のような、大きくてつぶらな金色の双眸に アリアの顔が映っているのが見えた。
「アリア。一つだけ、約束して」
 ひどく真剣な、子供の姿にそぐわない表情。アリアが以前、巫子になることを決意した時に見せた 顔と似ている。
「アリアは私が守るから。だから、アリアは絶対に、誰かを憎んだり、傷つけたりすることを 望まないで」
「オルフ?何を言って……」
「アリアが悲しまないように、アリアが苦しまないように、私が守るから。だから約束して」
 なぜオルフがこんなにも必死に訴えるのか、アリアにはわからなかった。しかし言葉に込められた 思いが本物であることはアリアにもわかったし、何より、誰かを傷つけようなどと望むはずもない。 だからアリアは、ただ一つ頷いてみせた。
「わかった。約束する」
 オルフの小さな手が、つながったままのアリアの右手をぎゅっと握る。
 いつの間にか傍まで来ていたシェラザードが胸に手を当てて、艶やかに微笑んだ。
「私も、全身全霊をかけてアリア様をお守りします」
 至近距離で見つめられ、囁かれて、不覚にも赤面してしまった。はっと我に返り、女同士なんだからと 自分に言い聞かせる。
「シェラザードも私が守る。アリアも、アリアの大切な人たちも全部、私が守るから」
 他の人間を守ると言いながら、オルフの瞳はアリアに注がれたままだ。
 大げさにすら感じられる、オルフの『守る』という言葉に込められた意味をアリアは知らない。
 目の前にいるこの小さな竜の君がこれまで何を見て、聞いて、どんなことを経験し、そして今、何を 考えているのか。アリアにはまったく知る術もなかった。






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