離れたところに座るのは距離を置いているからではなくて。単に、その方がよく見えるからというだけだ。
 精緻な模様の描かれた有名ブランドのティーカップを両手で包み込むように持って、日本茶を飲むようにすする。
 質問に答えることができず、困ったような顔をする。
 高らかに持論を掲げる山田太郎をうっとりと見つめるその眼差し。
「そうか、ロマンか………」
 何を考えているのか筒抜けだ。思わず、笑いが口から漏れ出る。
「何がおかしい」
 ちょうど笑った瞬間を目撃されてしまったらしい。立ち上がり、俺をにらむ。素人には到底出すことができないであろう 凄みのある迫力。剣呑な空気が流れる。そのまま俺に詰め寄ってこようとしたところで、山田太郎が間に入った。なだめられ、 周りを見回して、慌てて気を静める。
「わ、悪い。驚かせたな」
 謝罪の言葉は、ピンクとイエローに向けてだ。
 この二人がどのような実生活を営んでいるのかは知らないが、普通の女性であれば、こんなにも危うい空気にさらされた経験など おそらくないだろう。驚き、怯えを抱いても無理はない。慣れている俺でさえ圧倒されそうになるのだ。
 それじゃあと辞するのを手を振って見送っていると、すれ違いざま、すごい目でにらまれた。
 ああ本当に、なんとわかりやすい人なのだろうか。
 思わず表情筋がぴくりと反応しそうになるのを紅茶を飲んで誤魔化す。ゆっくりと時間をかけてそれを飲み干して、 十分な間をとったところで席を立つ。
「俺も失礼する」
 まっすぐ出ていこうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「お疲れ様ですっ!」
「ああ…お疲れ」
 イエローがわざわざ立ち上がって俺に頭を下げる。それに適当に返事をして、今度こそ俺は部屋を出ていった。



 小さい頃は泣き虫だった。
 転んでは泣き、怖い夢を見たと言っては泣き、部屋に虫が入ってきては泣き、牛乳が飲めないと言っては泣いていた。 我ながら面倒な、思わず頭をひっぱたきたくなるような子供だったと思う。
 しかしそんな俺を怒らず、面倒がらず、ひっぱたくこともなく優しくしてくれたのが兄さんだった。 あの時、俺を助けてくれたのも兄さんだ。
 あれは兄さんと両親と、家族そろって初めて遊園地に遊びに行った時のこと。ものすごい人混みの中、はぐれないようにと つないでもらっていた手をはしゃぐあまりに離してしまった阿呆な子供は、予想通りに迷子になった。一人ぼっちで心細くて、 べそべそと泣くしかできなかった。そんな俺を、兄さんは見つけてくれたのだ。背の高い大人たちをかき分けて颯爽と現れた、 その瞬間の兄さんの姿は光り輝いて見えるほどに格好よかった。その後に見た、遊園地の目玉だという戦隊ヒーローショーに 兄さんは嬉しそうに歓声を上げていたが、俺から見ればあんなヒーローよりも兄さんの方が格段に格好いい。俺にとっては、 兄さんこそがヒーローだった。
 優しくて、頼りがいがあって、とても格好いい兄さん。真面目で責任感が強く、部下たちからも本当の兄のように慕われる姿は 見ていて嫉妬を覚えてしまうほど。しっかりしているようでいて、意外と抜けている部分があるのがたまらなく愛おしい。 大人になった今でも特撮ヒーローものが好きで、時々うっとりしながら頭のねじが飛んでいるんじゃないかと思うようなことを つぶやいている、そんな少し馬鹿なところが可愛くて仕方ない。何者にも代え難く俺は、心から、兄さんを愛しているのだ。
 ずっと兄さんを見てきた。兄さんに関わることならば、たいていのことは知っているという自負がある。 だから兄さんが最近おかしな連中と付き合いがあるらしいということにも、すぐに気が付いた。
「申し訳ないが、ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ」
 どこの誰だか知らないが、もしそれが純粋な兄さんの心をもてあそぶような輩であれば鉄槌を下してやらねばなるまい。
 こそこそとどこかに行こうとする兄さんを尾行していた俺の前に、一人の男が立ち塞がった。
「あきらめて引き返してくれたまえ。五百旗頭黎君」
 ほんの一瞬だけ、さすがの俺も言葉を失った。
「………なんだお前は」
 誰だ、とは訊きたくなかった。丸い耳付きの意味不明なかぶりものを堂々とかぶっているような男には。
 しかし男は俺の質問に答えようとはせず、胸の前で両腕を組んで仁王立ちしている。
 堂々としたその態度が逆に俺の心を冷静にさせた。す、と目を細めて、男を睥睨する。
「名前を知っているということは、俺のことは既に調査済なんだろう。なら、俺が素直に引き下がる性格でないことは わかっているはずだ」
「まぁ、その通りなんだがね。我々にも色々と事情があるのだよ。なんとか、納得してはくれまいか」
「無理だな」
「ぅむう…」
 男が唸る。
「無理矢理にでもお引き取り願いたいところだが、それでも懲りずにまた後をつけてきそうだな、君は…」
 無言でひょいと肩をすくめる動作で男の言葉を肯定する。男が何者かは知らないが、調査力はそれなりにあるようだ。 俺という人間をよく調べてある。
 そのまま、しばしにらみ合い。
 やがて男がため息をついた。
「仕方がない、か。…まぁいい。ちょうど変態ウォッチに一つ空きがあるところだ。適合性と血縁関係との間に相関があるのか、 データを集めるいい機会だ。どっちに転んでもさほどマイナスにはなるまい」
 やれやれといった感じで男がつぶやく。
「わかった。我々が何者であるのか君に説明しよう。その代わりに、君の協力を仰ぎたい。それとこれから話すことは くれぐれもトップシークレットでお願いする」
 約束はできないな、と。そんな本音を心の奥に隠して、俺は男に向かってしっかりと頷いてみせた。
 これが、俺と耳付き男、改め山田太郎との出会いである。先にねずレッドとして適応していた兄さんと血のつながりがあることとの 関係性は結局科学者たちも結論を出せなかったようだが、結果として俺は装置に適合性ありと判断され、そしてねずブルーと なったのだった。



「お疲れ様、兄さん」
 背中に声をかければ、一瞬びくりとしかけて、それからゆっくりと振り返る。
「れ、黎…」
「どうしたんだ、兄さん?そんなに慌てて」
 実に白々しい。言っていて、自分で笑い出しそうになる台詞。
「俺相手にいまさら隠し事なんてしないでいいだろう。兄さんのことはよく知ってる」
 俺の言葉にいちいち感情を動かされて、兄さんが表情を変えるのを見るのが楽しくて、つい意地の悪いことを言ってしまうのだ。 いわゆる好きな子ほどいじめたい、という理論と同じなのだろうと思う。
 兄さんと、いつからか疎遠になった。はっきりと何かきっかけがあったという訳ではない。ただ子供から大人へと 成長していく中で、俺と兄さんとの間には自然と距離が開いていった。そして今の兄さんはおそらく、俺のことを嫌っている。 いや、もしかするとそれは嫌いというほど積極的な感情ではないのかもしれない。しかしいずれにせよ、仲良しとは言えない 関係であることは確かだ。
 同じ家で寝起きしているにも関わらず、あまり顔を合わせなくなった。顔を合わせても会話が減った。会話をしているときも、 どことなくよそよそしい。
「たまには俺も誘ってくれればいいのに」
「…何の話だ?」
 兄さんが未だに特撮ヒーローものを好きなことは両親も知らない。知っているのは俺だけだ。二人だけの、共有の秘密。 些細なことだがなんだか嬉しい。
「それよりも、黎。勝手に人の部屋に入ってくるんじゃない」
「勝手じゃない。声はかけた」
「本当か?全然聞こえなかったぞ」
「俺が部屋に入ってきたのにも気付かなかったくらいなんだ。無断で勝手に入ったというより、声をかけられたけど気が 付かなかった、っていう方が無理のない説明なんじゃないか?」
 会話が弾む。ここまで会話が続いたのは何日ぶりだろうか。気分が高揚して、言動に拍車がかかっていく。
「それだけ集中していたんだろ」
 あえて何にと言わないのがポイントだ。兄さんには直球勝負よりも変化球の方が効く。これまで長きに渡って兄さんを観察、 研究してきた上での結論だ。そして案の定、兄さんは何とも言えない複雑な表情になった。苦虫を噛み潰すどころか、 甘い虫やら辛い虫やら酸っぱい虫まで噛んでしまった、というような、一体どんな顔をすればいいのかわからないといった顔。 そして返事に詰まった末に、話題を変えようとする。
「………それで、何の用だ?」
「別に。用はない」
「用もないのに来たのか」
「用がないと来たらいけないのか?」
 これは本音だ。
「用がないと、兄に会いに来たらいけないと?お疲れと一言、兄に挨拶しようと思ったことがそんなに罪なのか? 弟相手になんて冷たい」
 朝起きたらおはようと言って、夜帰ってきたらおかえりと、お疲れさまと挨拶したい。用事があるときだけでなく、 無駄な会話だってしたいのだ。
 しかし俺のそんな素直な思いを吐露したところで、兄さんはおそらく信じないだろう。せいぜい何か裏があるんじゃないかと 疑われるのが関の山だ。だから俺は、あえて芝居がかった調子で台詞を歌い上げた。
「組長といえば組員たちを守る家長のようなものだ。兄さんは将来、後を継いで組長になるんだろう?未来の組長が、 実は家族に対する情の欠片もない男だった…なんて知ったら、皆はどう思うだろうか」
「………」
「悲しむか、怒るか、失望するか…。兄さんはどう思う?」
 疑いの目を向けられるよりは、怒った顔を見ている方が楽しい。それに、ほんの少し、八つ当たりしたい気持ちもあった。 いくら俺でも、こうもつっけんどんな態度ばかりとられていては拗ねたくもなる。
「わかった。わかったから、もういい。挨拶するのが目的ならもう用は済んだな。ならお前も、自分の部屋に戻れ」
 頭痛をこらえるように兄さんが頭を押さえる。
 ここいらが潮時だ。これ以上やって、決定的な亀裂が入ってしまっては本末転倒だ。
 だから、俺は兄さんに向けて唇の端を上げ、笑ってみせた。
「仕方ない。今日のところはこれで退散するとしよう」
 それじゃあと手を振りながら兄さんの部屋を出ていく。顔に笑みを張りつかせたまま足早に廊下を歩く俺に声をかけようとする者は 誰もいない。偶然に遭遇した組の男たちも、黙って俺に道を開けた。廊下を曲がり、辿り着いた自室のふすまをしっかり閉ざして 自分で取り付けた鍵をかける。
 一人きりの部屋の中、最後に見た兄さんの顔を思い出した。
「兄さんは馬鹿だなぁ…」
 あんなにわかりやすくていいのだろうか。
 若頭という職業上、またねずレッドとしても、あまり相手に内心を知られてしまってはよくないだろうに。
 これだから、兄さんは放っておけない。






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