いつだって敵は強大だ。
 向こうから積極的に手を出してくることはないが、歩いて行こうとする道の真ん中にどんと立ち塞がって、私の行く手を阻む。 その度に、それを乗り越えるのは正に命懸け。心身共に追い込んで、ようやくすべてが終わったときには完全に燃え尽きて、 真っ白な灰のようになっている。
 そして今日もまた私は瀕死の状態で、薄暗い部屋の中ぐったりと床に寝ころんだ。
「はぁ………間に合ったわ………」
 なんとか締め切りを破らずに済んだ。
 ここ数日、ろくに眠っていないせいで朦朧としてくる。
「あぁ…寝たら駄目。ミドリさんにご飯あげないと…」
 去年の夏の縁日で知り合って以来、ずっと一つ屋根の下で暮らしてきた。ミドリガメのミドリさんにまだ晩ご飯をあげていない。
「ミドリさん…」
 起きようと試みるが、金縛りにでもあったように体が動かない。
「ごめんね、ミドリさん………」
 謝ったつもりだったが、実際に私の口から発せられたのはもにょもにょと意味不明な音の羅列にしかならず。
 断崖絶壁にかろうじて引っかかっていた私の意識は、すとんと真っ暗な谷底へと落下した。



「………」
 ふっと浮上する。
 半分しか開いていない目で携帯電話を探す。ちゃぶ台の上、電源がついたままのノートパソコン。ああしまった電源切り忘れた、 などと思いつつそのすぐ傍らに見つけた携帯電話を手に取って、現在時刻を確認する。午前八時三分。仕上がった原稿を メール送信したのが確か昨夜の九時前くらいだったから、半日近く眠っていたことになる。布団も敷かずに寝てしまったせいか 腰が痛い。とりあえずパソコンをシャットダウンして、あくびをしながら伸びをする。意識がないながらも邪魔に思ったのか、 寝ていたあたりに無造作に放り出されていた眼鏡を手に取り、かける。
「そうだ、ミドリさん」
 結局ご飯をあげずに眠ってしまったのを思い出して、私は慌てて立ち上がった。玄関を入ってすぐのところに置いてある水槽へと 駆け寄る。
「ごめんね。お腹空いたよね、ミドリさん。今日は原稿終わって余裕ができたから、水槽の掃除もしてあげるからね」
 ミドリさんとコミュニケーションをとりながら、自分で言った『掃除』の一言にはっとする。
 今日は、燃えるゴミの日だ。一回くらいなら出し損ねてもそこまで大きな支障はないが、それでも、ただでさえ狭い室内に ゴミの袋が鎮座していては結構邪魔だ。
 私は急いでゴミをまとめると、寝間着代わりのジャージにサンダル姿で部屋を飛び出した。
「…っきゃあっ!?」
「ぅわっ!」
 一目散、ゴミ捨て場に向かって走り出そうとした矢先、私は思い切り何かと衝突した。後ろに倒れそうになるところを、 ぐいと腕を引っ張られる。おかげで、なんとか踏みとどまることができた。
「大丈夫ですか?」
「は、はぁ…すみません、前方不注意で…」
 ぶつかった拍子にずれてしまった眼鏡をかけ直す。
「おかげさまで、私はなんともないです」
 私がぶつかり、そしてひっくり返りそうになったところを助けてくれたその何かの、高いところにある顔を見上げて、 私はぺこりと頭を下げた。
「どうもありがとうございました、御影さん」
 それは、私の部屋のお隣に住むお兄さんだった。
「御影さんのおかげで助かりました」
「いや、俺の方も不注意だったから。怪我がなくてよかった」
 御影さんは背が高い。私も女性としては大柄な方だが、それでもこうして見上げる形になる。
「それより猫柳さん、どこか急いでたみたいだけど…?」
「ああっ、そうだった!」
 ゴミ出しのために出てきたことをすっかり忘れていた。
 どうして私はいつもこうなんだろう。のんきとかマイペースとか、そういった形容詞は良い意味で使われることもあるが、 私に関しては間違いなく欠点の方だ。
「すみません御影さん、ゴミ収集車が来てしまうので失礼しますっ!」
 取り落としたゴミ袋を慌てて拾おうと私が伸ばした手の先で、先回りするようにさっと御影さんがそれを拾い上げる。
「あの御影さん…?」
「俺が持つよ。また、転んだら危ないし。………どうせ俺もゴミ捨て場の方まで行くから」
「御影さん…」
 なんて親切な人なんだろうか。感動で、胸がじんと熱くなる。
「さ、急ごう」
 そう言って御影さんが私を促す。
 それに頷き返して、私は御影さんの隣に並んでゴミ捨て場に向け走り出した。



「あ…メールきてる」
 御影さんの協力のおかげで、ゴミの収集にはなんとか間に合うことができた。これから仕事だという御影さんを、 何度もお礼を言いつつ見送って、帰途につく。
 また今度、改めて御影さんにお礼をしよう。お礼は何がいいだろう。御影さんの好きなものってなんだろうか。 なんてことを考えながら歩くうちに、気が付いたら自分の部屋の前まで戻ってきていた。
 玄関のドアを開けてすぐ、床の上に無造作に放置された携帯電話が目に入る。
 ああ携帯置きっぱなしにしてた。
 またやってしまった。前にもこうして携帯電話を携帯し忘れて、大切なときに限って連絡がとれないと怒られたことがあるのに。
 がっくりとうなだれる私の目に、携帯電話のイルミネーション部分がちかりちかりと光るのが見える。わたわたとサンダルを 脱ぎ捨てて、私は携帯電話にまろぶように駆け寄った。
「庵からだ…」
 メールの件名を見てみれば、『新刊読んだぜ☆』とある。
「庵、読んでくれたんだ」
 あの辺りは大手書店がないから、わざわざ遠出をしなければ私の本なんて手に入らないはずだ。
 私はあんたのファンだからね、と。かつてそう言ってくれた友人の顔を思い出して嬉しくなる。同時に、 ほんの少し複雑な気分になった。
 ふ、と一瞬息を吐いてからメール本文を開く。
 『今回も大いに萌えさせてもらった。蘇芳と葵、マジいいわ。ってかもっと二人いちゃいちゃさせてもいいんじゃね? 次回も期待してるわ〜』。
 そんな文面が、キャラクターもののデコレーションで彩られている。
「もっといちゃいちゃ、か…」
 実のところ、担当の編集者にも同じようなことを言われたことがある。すなわち、もっと『濃い』シーンを入れてみても いいのではないかと。
「ううう…」
 思わず頭を抱えた。
 都心からほどほどに離れ、交通の便もほどほど、ほどほどの広さでほどほどの家賃のこのアパートで、私はいわゆる小説家業と いうものを営んでいる。といってもそれ一本で暮らしていけるほどの稼ぎはなく、アルバイトと平行しながら執筆活動を続ける毎日だ。
 では、そのようにして私が日々どのような物語を創作しているのかというと、非常に言い出しにくく、またそれが 私の複雑な心境の原因だったりするのだが、結局のところ一体何なんだと言われると、つまり。
「濃厚なボーイズラブ小説なんて、うぅ………どうしたらいいの………?」
 ボーイズラブ。
 男と男、同性同士の恋愛を描くジャンルのことだ。
 そう、私は、ボーイズラブ作家なのである。
 小説家になるのは子供の頃からの夢だったが、私が憧れ、目指していたのはその中でも純文学のジャンルに当たる。 それがどうして今ボーイズラブ小説を書いているのか。すべて話すと長くなりそうなのでここでは割愛するが、一言で簡潔明瞭に 表すならば、大学生時代の友人である庵若葉の存在がきっかけだった。文学作品にとても造詣の深い庵は、同時にボーイズラブ小説を もたしなむ。むしろそっちが専門だ、というのは本人の談で。
 とにかくそんな庵の影響で書いてみた作品が運よく出版社に見初められ、めでたく小説家デビューと相成ったという訳である。
「楽しみにしてくれるのは嬉しいのだけれど…」
 どんなことを求められているのかはなんとなくわかる。勉強のためと目を通した多くの文献では、男同士があんなことや こんなことをしていた。
 この、悩ましい心の葛藤には理由がある。
 ボーイズラブ作家として日々締め切りに追われるようになった今でも、純文学を書きたいという夢は変わらない。 その夢と現実とのギャップに悩むときもある。しかし一番、私を苛んでいる原因は。
「ラブシーンなんて書いたら私、あの二人に顔向けできないわ………」






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