秋の日の夕暮れは早い。ほんの数分前に夕焼けチャイムが鳴るのを聞いたが、もう既に周囲は薄暗くなっている。 私が今いるこの道のように、街灯の本数が少ない場所なら尚更だ。
 じりっと、私のかかとが後退る。
 逃げの態勢をとった私の前には、一人の男が立っていた。
 背は高く、百八十センチはあるだろうか。すらりとした体躯をロングのトレンチコートで包んでいる。きりっとした太い眉に 彫りの深い目鼻立ちは、日本人のものではなさそうだ。仁王立ちして腕を組み、そしてなぜか、泣いている。
 泣きたいのは私の方だ。
 さっきから極力視界に入れないようにしてきたそれに、ちらりと目をやる。
 男の頭上。そこには、耳があった。
 気ぐるみというのか、かぶりものというのか。顎までを覆うダークグレイの毛皮のそれの、側頭部ちょっと上の部分に ちょこんちょこんと小さな丸い耳が二つ乗っている。
 一体何なのだろう。猫耳ではないようだし、熊耳か。
 どっちにしろ、変態であることは確かだ。
「キュートなお嬢さん。ずっと君のような人を探していたよ」
 何ということだろう。
 変態のくせに、声がいい。耳元で囁かれたら腰が抜けてしまうんじゃないかと思うような、低くて渋い、格好いい声。
「どうか、私と一緒に来てくれたまえ」
 思わずうっとりとしかけて、その発言内容の不穏さにはっと我に返る。
 ただの変態かと思ったが、もしや変態の誘拐犯なのだろうか。そうすると、ますますもって身の危険だ。
 躊躇っている余裕はない。逃げよう。
 そう思って、私が男に背を向けようとした瞬間、男がパチンと指を鳴らした。その音を合図に、どこに潜んでいたのか 黒服サングラスの男たちがわらわらと姿を現す。神出鬼没なこと、Gの付く黒いあいつの如し。なんて考えていられたのも 最初のうちだけで、すぐに私は男たちに囲まれてしまった。
「ちょっ、何、何なのよあんたたち…!っやだ触らないでったら!」
 必死の抵抗もむなしく、呆気なく捕まる。そしてそのまま、すっと音もなく私の横に乗りつけた黒塗りの車に押し込められた。
 両脇をがっちりと黒服サングラスに固められ、運転席にもやはり黒服サングラス、そして助手席には美声の変態。
 あまりにもあんまりな、非現実的なその光景に、私はとうとう意識を手放した。



 気が付くと、まったく見知らぬ場所だった。
 どこかホテルの一室、それもスイートルームのような、広くて洗練された内装。といっても実際にホテルのスイートルームに 足を踏み入れたことなどないので、単なる想像に過ぎないのだが。
 ともかくそんな感じの部屋の中、キングサイズのふかふかなベッドの上で、私は仰向けになって寝ていた。
 何がどうなったのかわからない。が、あのまま誘拐されたにしては随分とVIP待遇のような気がする。私はこんなに丁重に 扱われるような、お金持ちのお嬢さんではないのに。
 ゆっくりと体を起して、辺りを見回してみる。ベッドサイドのテーブルの上に、私の鞄を見つけた。それから念のために 着衣を確認するも、乱れなし。ただ一つ、左手首に見覚えのない時計を装着しているのに気が付いた。金色の文字盤に、 某夢の国のネズミによく似たキャラクターが描かれた腕時計。
「ぅわ、微妙…」
 可愛いのか可愛くないのかよくわからない。
 ためつすがめつしていると、突然ガチャリと音をたてて部屋のドアが開かれた。
「やぁ。気分はどうだい、四月一日菜花君」
 さわやかスマイルと共に現れたのは、あの美声の変態だった。ちらりとのぞいて見える歯は芸能人のように真っ白だ。 変態のくせに。
「っていうか、どうして私の名前を…!」
「君が眠っている間に色々と調べさせてもらったよ」
 どこからともなく手のひらサイズのノートをさっと取り出し、ぱらぱらとめくっていく。
「四月一日菜花、十七歳。高校二年生。身長百五十四センチ。体重は…まぁ平均値だな。成績は中の上で、得意科目は国語。 テニス部所属。家族構成は両親と、姉と妹が一人ずつ。友人は多いが彼氏なし」
「………」
 唖然とする私に、男がぱちりとウインクをかます。
「情報収集は戦略の基本だからな」
 いたずらっぽい感じで笑いかけられて、別の意味でどきどきした。
 変態で、誘拐犯で、その上さらにストーカーだったなんて。一体私にどうしろと言うんだ。
「あ、の…ここはどこですか?親も心配すると思うので、家に帰りたいんですが…」
 一か八かで、小細工なしの正面突破を試みる。
「それは駄目だ。まだ君に帰られるわけにはいかない」
 しかしあっさりと打ち砕かれた。
「まぁそう生き急がなくともいいだろう。お茶でもしながら、ゆっくりと話をしようじゃないか」
 さぁどうぞ、とジェントルマンな仕草で招かれる。しかし何度も言うが、相手は変態である。変態についていってはいけません。 そんなこと、小学生だって知っている。
「ふむ…どうしても話がしたくないというのなら仕方ない」
 なぜ私が、こんな駄々っ子を見るような目をされなければならないのか。
「気が変わるまで長居してもらうことになるが。なに、安心したまえ。衣食住はきちんと提供しよう。それ以外にも、 欲しいものがあったら遠慮なく言ってくれたまえ」
 おかしい。私は突然変態ストーカーに誘拐された、被害者のはずなのに。
「………」
 しかしこのまま抵抗を続けていても、事態が好転しそうにないことも確かだ。
 長居だなんて冗談じゃない。私は明日も学校があるのだ。
「………わかりました。行きます………」
 長い葛藤の末、私は泣く泣く男に向かって頷いてみせた。



 長い廊下を移動した先で私が通されたのは、これまた立派な部屋だった。宴会場とまではいかないが、学校の教室くらいには 広い室内に、なんだか高級そうなデザインの椅子とテーブルが鎮座している。先に男が座ったので、少しでも距離をとるべく その斜め向かいに腰を下ろした。すると見計らったかのようなタイミングの良さで、覚えのある黒服サングラスがティーセットを 運んでくる。
 男が優雅にティーカップを傾ける、その、小指がぴんと立っているのが気になった。
 どうでもいいが、この男はずっとコートを着たままで暑くはないのだろうか。
「紅茶は嫌いだったかな?」
 両手を膝の上に置いたまま、私が紅茶に手をつけようとしないのを見て男がわずかに首を傾げる。
 それに私は、曖昧な微笑みと共に首を振ってみせた。
 紅茶は嫌いではないし、正直なところ一緒に出されたフルーツ山盛りのタルトには非常にそそられるものがある。しかし、 好き嫌いの問題ではないのだ。やむなくここまで男につき従ってやってきたが、出された食べ物をうかうかと口にするほど 私は間抜けではない。変態から物をもらってはいけません。そんなこと、小学生だって以下省略。
 すると男は、また例の仕方がないなというような眼差しで私を見て。
「君も頑固な子だな。……わかった。本題に入ろう」
 どこまでも上から目線。
「話を始める前に。まずはその、左手の時計を見たまえ」
 言われて、そういえば知らないうちに微妙な腕時計を身に着けていたことを思い出した。話題に出るということは、 この時計も目の前の男の仕業なのだろう。
「横に小さなボタンがついているだろう?それを押しながら、こう言うんだ。………『変態』、と」
 言われるままにボタンを押して、続く言葉を待っていた私はその一言にげふっとむせた。
「…今なんて?」
「だから『変態』と言いなさい」
「………」
 変態に、変態って言えと言われてしまった。
「………嫌です」
「んなっ、なぜだね!?」
「なぜって…嫌に決まってるじゃないですか、そんなこと。そんな、『変態』だなんて…」
「あ」
「…あ」
 言ってしまった。
 こんなコントみたいな展開、自分で自分が信じられない。
「…っ!?」
 不意に、ぞくりと何かが背筋を駆け上がる。ざわざわっと肌が粟立つような感覚と、風邪をひいたときのような、 熱っぽいだるさが体を包み。目の前で、光が弾けた、ような気がした。
「素晴らしいっ!」
 ブラボーとか叫びそうな勢いで、滂沱として涙を流しながら男が激しく拍手している。
「やはり私の目に狂いはなかった!」
 一体なんなんだ。
 はらりと顔に落ちかかった髪の毛をかき上げた私の手が、ふと何かに触れる。側頭部に、ふっくらと毛むくじゃらの何か。 猛烈に嫌な予感がした。
「これで自分の姿を見てみるといい」
 男がさっと鏡を差し出す。
 先ほどのノート同様どこから取り出したのか、手鏡というにはいささか大きいそれをひったくるように受け取り、覗き込んだ。 そして次の瞬間、愕然とする。
「何これ…」
 茶髪の根元がだいぶプリン状態でそろそろ美容院に行かなきゃと思っていた、肩に付くくらいのボブカットの髪の毛が、バナナの ような真っ黄色をしていた。そして、髪と同じ黄色い毛並みの小さな丸耳。しかも服装までが、黄色のつなぎに変わっている。
「よく似合っているよ、四月一日菜花君」
 うんうんと何度も頷いて、男は至極満足そうだ。
「これで君も私たちの仲間だ。歓迎するよ、ねずイエロー」
 ばっさあぁぁ、という効果音が出そうな、大仰な仕草で男がコートを脱ぎ捨てる。現れたのは、程よく筋肉のついた引き締まった 肉体と、それを包む純白のビキニ。いや、包むというのは正しくない。布の面積がやけに少ないその上下が、申し訳程度に体を 覆っているだけだ。
「今日から、一緒に平和を守ろうではないか!」
 遊園地でボクと握手だ、とか言ってる戦隊モノのヒーローのようにさっと右手を差し出される。しかしどんなに格好つけられようと、 そこにいるのはビキニ姿の男、でしかなく。小さなブラの下の胸筋が、自己主張をするようにぴくぴくっと動いた。
「っぎゃあああぁぁぁあっ!」
 思い切り悲鳴をあげる。
 きゃあっ、と可愛らしく叫べなかったことだけは唯一、私の心残りだった。






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