わたしがこの場所に生まれてから、もうどれくらいたったのでしょうか。
それすらも思い出せないような長い時間。わたしはたくさんの人々と出会いました。
酷いことをする人もいたけど、そんなときは、必ず誰かが守ってくれた。みんな、わたしに優しくしてくれた。
みんなが、わたしを愛してくれた。そんな暖かさに包まれて、いつからか、わたしも彼らを愛するようになりました。
愛する人たちのために、わたしはいつでも一番きれいなわたしであろうとしてきました。
そんなわたしを見て、みんなは笑ってくれたから。
でも、わたしは今ひとりです。わたしが愛した人は、わたしを愛してくれた人はもういません。
時はとても早く過ぎてしまうので、わたしの前で足を止めてくれる人はいません。
どれだけわたしがきれいに装っても、わたしを見て、微笑んでくれる人はいません。
それでもわたしは、いつか誰かがわたしを愛してくれることを願って、待っているのです。
時々は、淋しくて泣いてしまうこともあるけれど…。
「もうこんな時間。早く帰らなきゃ」
誰かの声が聞こえる。ぼんやりとした月の明かりと、人の作った明かりの中、誰かが早足でやってくる。
やがてはっきりとしたその姿を見て、わたしは微笑みました。
それは、わたしのよく知る少女でした。わたしはその少女が小さいときから、ずっと知っていました。
明るくて、とても優しい少女でした。
こんばんは、お嬢さん。元気な姿が見られて嬉しいですよ。
不意に。わたしは、自分の中でなにかがざわめくのを感じました。いくつもの、警告の声。あぶないよ。あぶないよ。
わたしは、明かりの下に知らない人間がいるのに気が付きました。その男を見た瞬間、わたしの全身が総毛立ちました。
あの人間はいけない。あれは、とても嫌なものだ。お嬢さん。そこから逃げて、お嬢さん。
わたしは必死に呼びかけました。だけどわたしの声はお嬢さんには届かず、
あの人間の手の中でなにかがきらりと光った時、ようやくお嬢さんは足を止めました。
お嬢さんの悲鳴が、夜のしじまを切り裂いていく。お嬢さんが、わたしの方に走ってくる。助けを求めて、わたしに手を伸ばす。
お嬢さんを追ってきたあいつが刃物を振りかぶり――。
どうか神様。
わたしはどうなってもいい。お嬢さんを、助けてください。どうか。どうか。
一陣の突風が、わたしの花びらをもぎ取る。そして、あいつにからみつく。
あいつはわたしの花びらに視界を奪われ、あいつの凶器はお嬢さんではなくわたしを刺した。
激しい痛み。刺されたところから、なにかが抜けていくような感覚。意識が闇に呑まれていく。
「そこで何をしている!?」
強い光がわたしたちを照らした。その向こうにいる人間を見て、わたしは安心しました。
あれは、『ケイサツ』という人間だ。あの人は、お嬢さんを助けてくれる。良かった…。
朦朧とする意識の中で、わたしは微笑んだ。
さようなら、お嬢さん。わたしはもう長く生きた。自分のしたことに悔いはありません。けれど。
けれどもしも叶うのなら、お嬢さん、どうか、わたしのことを覚えていてください。
時々でいいから、わたしのことを思い出してください。それだけでわたしは、とても幸せになれるから……。
何かに呼ばれたような気がして、少女は振り返った。
「…桜……?」
夜の闇の中、淡紅色の花びらが雪のように舞っていた。
それはとても、とても、綺麗だった。
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