「猫柳さん。今度の日曜、映画を見に行きませんか?」



side猫柳小梅

 これは結構、いや、かなり嬉しい。
 私は自分の手の中のチケットを改めて見つめた。
 テレビをつければ番宣を目にしない日はないというほどに今、話題の映画。原作を執筆している 作家さんが私の尊敬する大好きな人で、見に行きたいなと思っていた。その試写会のチケットを 私は手にしている。
「俺も知り合いから貰ったものなんだけど…」
「私が一緒に行っていいんですか?」
「この前の、カレーのお礼に」
 そもそも御影さんにカレーをおすそわけしたのはゴミ出しを手伝ってくれたお礼だった訳で、 その更にお礼を、というのもなんだかぐるぐると堂々巡りしているような気もするのだけれど。
 それでも、思わぬ幸運に私は文字通り飛びついた。
「行きます。嬉しいです。ありがとうございます」
 待ち合わせの場所と時間を決めて、御影さんと別れる。部屋に戻った私はごろりと行儀悪く 床に寝転んだ。
「でも、本当に私でよかったのかな」
 折角の映画。折角のペアチケットなのに。
「彼女さんとかいないのかな、御影さん」
 言ってから、はっと気がついた。
「なんだかデートみたい…」
 映画の方に気を取られて今の今までまったく考えていなかったのだが。男の人と二人、 映画を見に行くなんてまるでデートだ。
「…って何言ってるのよ私。御影さん良い人だから、ただ、カレーのお礼にって。それだけなのに」
 急に恥ずかしくなって、誰に見られている訳でもないのに私は両腕で顔を覆い隠すようにして 頭を抱えた。治まりきらない恥ずかしさを何とかしたくて、胸がどきどきするその衝動のままに 髪の毛をぐしゃぐしゃぐしゃっとかき混ぜてみると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。
 さっきより幾分冷静な頭で、もう一度考えてみる。
「………服、何着て行こうかな」
 御影さんとの約束はやっぱりどきどきして、わくわくした。



 そして日曜日。
 待ち合わせの場所には、既に御影さんが待っていた。
「ごめんなさい御影さん。お待たせしてしまって…」
「いや、俺の方が早く到着しすぎただけだから」
 ここ最近では完全にたんすの肥やしになっていた洋服達を前にぎりぎりまで頭を悩ませていた せいで、予定より出発が遅れてしまった。待ち合わせの時間に遅刻した訳ではないが、それでも 御影さんを待たせてしまっていたことに申し訳ない気持ちになる。
 リボンの付いたベージュのブラウスに、パンツとざっくりとしたカーディガン。悩んで結局、 スカートをはくのはやめた。普段ちょっと出かけるときとあまり変わらない格好だが、 これで良かったと思う。いつもと同じ服を着ているおかげで、いつも通りの自分を保てる。 変にお洒落なんてしてしまったら、緊張して、御影さんの顔もまともに見られなかったかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
 歩き出した御影さんの斜め後ろをついて歩く。
「今日は本当にありがとうございます。見たかった映画なので、すごく嬉しいです」
「猫柳さん、映画はよく見るんですか?」
「いつもはそうでもないんですけど…でも、この映画はとても好きな作家さんが 原作を書いているので」
「そういえば猫柳さんの仕事って…」
「はい。一応、小説を書いてます」
 御影さんとは一度、締め切り前の追い詰められた状況で顔を合わせたことがある。あまりに ぼろぼろな私の姿に救急車を呼びかけた御影さんを止めようとして、私が小説家業を営んでいることは 話していた。
「なので、勉強の意味も込めて」
 不意に御影さんが歩く速度をゆるめて隣に並ぶ。見上げると、視線が合った。
「猫柳さんは、どんな小説を?」
「…ぇええっ!?」
 変な所から声が出てしまった。
 そんな私の反応に戸惑うように御影さんが足を止める。
「あの…猫柳さん?」
「あ、いや、その…えと…」
 どうしよう。絶対、変に思われた。いや思われているに違いない。けれど、御影さんに言うわけには いかない。小説家は小説家でも、私がボーイズラブ作家だなんてこと。
「えっとその…し、知り合いに、自分の書いた小説の話をするのは恥ずかしいので…」
 苦しい言い訳をなんとかしぼり出す。そもそもボーイズラブなんて存在自体を御影さんは 知らないんじゃないかしら、なんて思ったりもしたが、それでも言えなかった。
 前髪の間から様子をうかがうように御影さんを上目遣いに見る。
 不思議そうな顔をして、しかし御影さんはそれ以上追及してこようとはしなかった。
「そんなもの…か?」
「そうなんです。恥ずかしいんです。すごく恥ずかしいんです!」
 そんな御影さんの優しさに乗っかってまくしたてる。言えないのなら、誤魔化すしかない。
「あ、御影さん、時間は大丈夫ですか?」
 わざとらしく腕時計に目を落とすと、御影さんを置き去りに駆け足する。少し行ったところで 私は足を止めて振り返った。
「御影さん、早く行きましょう!」
 そして、御影さんに向かって大きく手を振ってみせるのだった。



side御影士狼

 いいものやろうか、と嫌な予感しか覚えない笑みをにやにや浮かべながら話しかけてきた佐伯の話を、 聞いておいてよかったと心から思う。
数ある趣味の一つとして日頃からあちこちの懸賞に応募しまくっているという佐伯が、自慢げに 差し出したそれ。その、映画の試写会ペアチケットのおかげで今、こうして猫柳さんの隣に並んで いられるのだから。明日は確実に会社で佐伯にからかわれるだろうが、それくらいまあいいやと 思えるほどに俺は浮かれていた。
 ちらりと、気付かれないように猫柳さんに視線をやる。
 可愛い。普段の猫柳さんも可愛いが、今日はいっそう可愛く見える。いつもと服装が違うから だろうか。自重するべきだとわかっていても、どうしても目がいってしまう。
「………猫柳さん?」
 ふと、猫柳さんがある一点を熱心に眺めていることに気がついた。目線をたどると、 その先には大学生くらいに見える男二人組が。
「あの二人がどうかしたんですか?」
「いいえ、大したことじゃないんですけど…。ただ、男の人同士でこの映画を見に来たのかなって、 気になって」
 確かに。男女の純愛がテーマというこの映画、辺りを見回せば見に来ているのは女子二人組か カップルばかりだ。少なくとも、俺の視界に入る範囲で男同士のペアはあの二人しかいない。
「これから彼女と合流するとか…?」
「うん………そう、ですよねきっと。ごめんなさい、変なこと言って」
 何かが頭に引っかかる。しかし、それが一体何ものであるのか判然としない。
 そうこうするうちに例の二人組も姿を消し、その何かの正体を探る手がかりも失われた。 後に残ったもやもやを小さく頭を振って追い出す。
 わからないことに悩むより、優先すべきことが今の俺にはあるのだ。



「せっかくなのでお茶しませんか?この近くに、落ち着けるカフェがあるんです」
 試写会が終わって、なんと猫柳さんの方からお茶に誘ってくれた。
「仕事の関係で何度かお邪魔したことのあるお店なんですけど…」
 一も二もなく猫柳さんの誘いに応じる。
 本当は俺から誘うつもりだったのだが。この嬉しい誤算に、思わずほころびそうになる口元を 手で覆い隠す。そうしながら、こっちですと案内してくれる猫柳さんの半歩後ろをついていった。
「コーヒーにすごくこだわっているお店なんですよ。私、いつもはあまりコーヒーって 飲まないんですけど、たまにそのお店に行ったときはついコーヒーを頼んじゃうんです」
 時々振り返っては笑って話しかけてくる猫柳さんはなんだか楽しそうだ。
「御影さんはコーヒー派ですか?それとも紅茶派?」
「どっち派とか考えたこともなかったけど…飲むことが多いのは、コーヒーかな。といっても 缶コーヒー専門だけど」
 他愛のない会話をしながら歩く。
 日曜日ということもあってか、町は人であふれていた。俺に向かって話しかける猫柳さんが すれ違いざま、前方から来る人とぶつかりそうになったのに気付いて、咄嗟に俺は猫柳さんの 腕をつかんで引き寄せた。
「…っ!?」
 間近に、猫柳さんが息をのむのが聞こえた。
 手を放して見下ろせば、大きな瞳を更に大きく見開いて俺を見上げる視線と目が合う。
「あ………りがとう、ございます……」
「いや。こっちこそ、いきなり引っぱってごめん」
「そんな…私の方こそ、不注意で…」
 言いながら、猫柳さんがぱっと俺から距離をとる。さっきまでの距離感よりも半歩遠い。
「今度は、ちゃんと前を見て歩きますね」
 そう言って俺に背を向けた、猫柳さんの行く手にまた新たな人混みが姿を現した。
「何かやってるのか?」
 地域随一をうたう大型書店の入口脇のスペースを取り囲むようにして集まっている人々。 イベントか何かだろうか。
「サイン会をやってるみたいですよ。あそこ、ポスターが貼ってあります」
「へぇ、サイン会か。誰だろう」
「ええと…相原麗先生の、新刊発売記念、みたいです」
 猫柳さんが読み上げたその名前に、思わず首を傾げる。
 知らない名前。けれど、どこかで聞いたことがある気がする矛盾。
「有名な人?」
「そうですね。人気のある作家さんですよ」
 どうやら猫柳さんは知っている人らしい。
 よく見てみると、サイン会目当てに集まっているらしい人たちはほとんど全員が女の人だ。 女性に人気の作家、とそこまで考えたところで、神の啓示でも受けたように突然、俺はひらめいた。
「………」
 このまま、何もなかったことにして猫柳さんとお茶を楽しむべきなのかもしれない。
 しかし俺は確かめたかった。俺の考えが正しいのかどうか。知りたかったのだ。猫柳さんのことが。 知って、今の関係よりももっと猫柳さんに踏み込みたかった。
「猫柳さん。ゲームをしよう」
「ゲーム、ですか?」
「そう、簡単なゲーム。俺が言った言葉の反対の言葉を言うんだ。『上』なら『下』、 『右』なら『左』、『高い』なら?」
「『低い』」
「『長い』」
「『短い』」
「『攻める』」
「『受ける』」
「………」
「………あ」
 決定打だった。
 一般的に、『攻める』の対語は『守る』が正解となる。そこを迷わず『受ける』と言い切った。 それはつまり猫柳さんがとあるジャンルに親しみ深いということを意味する。すなわち、 ボーイズラブという。
 相原麗の名前に覚えがあったのは、先日うちのサイトで行った作家の人気ランキングの、 ボーイズラブ部門で見事トップを飾った名前だったからだ。ジャンルがジャンルだけに完全に 斜め読みだったが、心の片隅に引っかかっていたようだ。
「あ、ええとその…」
 自分の発言の意味に気付いたのだろう。しどろもどろに弁解しようとする猫柳さんを、 俺は遮った。
「Cool‐JAPAN.netって知ってますか?」
「本とか色々、通販している…?」
「俺の職場、その運営会社なんだ」
 俺の突然の告白に、猫柳さんはぽかんと目を丸くした。
「だから大丈夫」
 語り合うほど詳しくはないが、偏見の目で見るほど無知ではない。だから。
「俺には、隠そうとしないで大丈夫だ」
「…それじゃあ今度の新作の相談…というか、御影さんをモデルに小説を書いてもいいですか?」
「………いやそれはちょっと流石に」
「ですよね…」
 残念そうにため息をつく。眉を八の字にした猫柳さんのその表情に慌てかける俺を見て、一転。
「冗談です」
 猫柳さんは思わず見惚れてしまうくらいにとても、綺麗に笑った。



「ありがとうございます、御影さん」





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