「狼男?」
素っ頓狂な声があがった。
「そう、狼男」
面白そうに男が言う。
「事件があったのって、全部満月の夜だろ?被害者の素性も、女の人だってことを除けば住んでる所も年齢も、
みんなバラバラでさ」
「だから、通り魔事件の犯人が狼男だって?」
頷く男に、女がふんと鼻を鳴らす。
「馬鹿みたい。この文明社会に、狼男だなんてそんなのいる訳ないじゃない」
言い捨てて、女は席を立った。
「バイトあるから、そろそろ行くわ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そう急ぐなよ」
「…だから、これからバイトなんだってば」
「ああ、わかった。わかってるから、少しだけ待ってくれ」
男が女を追いかけながら、自分の懐をあさる。
「この前、映画のチケット貰ってさ。よかったら一緒に見に行かないか?」
男が差し出した二枚のチケット。
ちらりと見て、女が横に首を振る。
「ごめん。その日は先約あるんだ。バイト先の先輩と遊園地、行くことになってて」
「………そっか」
「うん、そうなの。ごめんね。誰か他の人誘って?」
それじゃあ、と手を振って、今度こそ女はその場から去っていった。
駅近くの繁華街と違って、住宅街の夜は静かだ。建ち並ぶ家の窓からは人々が送る営みの明かりが漏れ出で、
街灯も整備されているこの道でも、ふとした瞬間どきりとしてしまう暗がりがある。まっすぐ前をにらむように見ながら、
女は足を速めた。いつもならまったく気にならない夜道が、なんだか気になって仕方ない。通り魔事件の話なんてしたからだろうか。
奇しくも、今日は綺麗な満月の夜だった。
「狼男っていうのは」
暗闇から声がする。
「なにも、狼の姿に変身する人間だけを指す訳じゃないんだ」
コツ、コツ、と響く靴音。
「月には人の心を狂わせる力がある。特に、満月の日の影響力は大きい。魔力と言ってもいいかもしれない。
そんな月の魔力に魅せられて、凶暴な衝動に身を焼かれる人間。それだって、立派な狼男だ」
「あんた…何言ってるの?」
つい数時間前に別れたとき、そのままの格好。よく見知った姿形で、しかし見たことのない笑みを浮かべて、男はそこにいた。
「月は恋をしているんだ。生まれてからずっと、もう何百年、何千年も。それは、狂おしいほどの恋心だ」
男が一歩歩み寄る。
女は、じりっと一歩後退した。
「けれど月の思いは届かない。見向きすらされず、思いを募らせるばかり」
「なんなのよ…ちょっと、意味わかんないってば…」
「こっちを見て。どこにも行かないで。ずっと傍にいて」
抱き締めようとするように、男が両の腕を広げる。
「太陽のようにまぶしくて、つれない人。心から君が好きだよ。誰にも渡したくない」
何かがおかしい。
男のただならぬ様子に恐ろしくなった女が踵を返す。男に背を向け走り出した。あそこの角を曲がれば大通りに出る。
そこまで行けば、誰かがいるはずだ。もしもの時に助けを求めることもできるだろう。そう考えた、その時。
「………」
真っ赤な花が、咲いていた。
買ったばかりの生成り色のブラウス。その腹の辺りが深紅に染まっている。
「どうして…?」
がくりと、崩れ落ちる女の体を男が抱きとめる。赤が自分の体に移るのも構わずに、強く女を胸に抱く。白い女の顔に
うっとりと頬ずりする男の顔は、ひどく幸せそうに微笑んで。
ざあっと強く風が吹いた。
雲が流れ、煌々と輝く満月を覆い隠す。
「………なんで、だろうな………」
既に冷たい女の体を腕に抱き、男が笑いながら、泣いていた。
月と星の明かりは雲に遮られて、人の手で生み出された光だけが男を照らすその中で、
先ほどまでの異様な気配はそこにはなく。
「なんでこんなことになっちまたんだろう………?」
翌日、住宅街の一角で女の刺殺体が発見される。満月の夜に犯行が行われるというその手口から、一連の通り魔によるものとして
警察は捜査を続けている。
また同日、都内の某アパートにて男が首を吊り、死んでいるのが見つかった。男の部屋に遺書はなく、代わりに、
大量の血液が付着した包丁がゴミ箱に捨てられていた。そのため、男が何らかの犯罪行為に関わっている可能性があるとの
見解を示している。
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