「綺麗な声だね」

 初めて出会ったあの日、彼はそう言って微笑んだ。遠い青空を眺めながらひとり歌を口ずさんでいた わたしに向けられた笑顔は春の日差しよりも暖かで。ひと目見た瞬間に、わたしは心を奪われた。
 彼は目が不自由な人だった。現し世の出来事を何ひとつ映さぬ硝子玉のようなその瞳には、 こげ茶の羽色をした鳥の姿は見えない。しかし彼の耳には、常人にはさえずりにしか聞こえないはずの わたしの歌声が聞こえた。ともに旅をしてきた仲間たちに置き去りにされ、長い時を ひとり過ごしてきたわたしにとって、彼はかけがえのない存在だった。彼と離れたくない。 永遠に、彼のそばにいたい。わたしに彼しかいないように、彼にとってのわたしも唯一のもので あって欲しい。
 だからわたしは、彼を連れて行くことにした。
 彼とともに、わたしたちふたりが永遠に一緒にいられる場所を探すのだ。

「ねえ、どこに行くの?」

 目の見えない彼が転んでしまわないように気をつけながら、何度も彼を呼ぶ。彼を導く。
 こっちだよ。こっちだよ。
 そして、不安げな彼の手を取って、わたしは空に舞い上がった。









「目を開けて」

 優しい声に促されて、ぼくは恐る恐る目を開いた。
 小さな頃から何ひとつ見ることができない役立たずの瞳。その瞳が、たくさんの色彩を映している。 大地が見える。空が見える。そして、ぼくの手を引く女の子の姿が見える。
 茶色の髪をした女の子が、ぼくに向かってにこりと笑う。

「君が、ルリ?」

 女の子が頷く。そしてぼくの手をしっかりとつかんで、遥か高い空を飛んでいく。
 夢のようだった。
 何事もなく、ただ穏やかな時間を浪費するだけの毎日。果たして本当に生きていると言えるのかと、 自問したこともあった。
 ルリと出会って世界が変わった。気が付くと、ルリのことを考えている自分がいた。夜が明けて、 日が昇る時を待ち焦がれるようになった。初めて歌声を聞いたあの瞬間から、きっとぼくは、 ずっとルリのことが好きだったんだろう。美しく、どこまでも澄み渡っていて、しかしどこか 淋しさを帯びた響き。守ってあげたいと思った。そばに、いてあげたいと思った。
 小さなルリの手のひらを、ぎゅっと握り返す。

「あのね、ルリ。ぼくはルリのことが大好きだよ」
「わたしも、大好き」
「ずっと一緒にいようね」
「…うん」









 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。人の心の不安をかきたてるその音が、人ごみの方へと 近付いてくる。
 ぐるりと何かを取り囲むように円を描いた人々の、その中心に、ひとりの青年が倒れていた。 すぐ近くに盲人用の白杖が転がっているところを見ると、目が見えなかったのだろうか。青年はぴくりとも 動こうとしない。

「あの人、どうしたの?」
「あたし見たわ。赤信号だったのにふらふらっと飛び出してきて、バイクにはねられたのよ」
「ひき逃げかよ…ひでぇな」
「でも、どうして飛び出したりしたんだろう。信号に気が付かなかったのかな」
「鳥を追いかけてたよ」
「鳥を?」
「うん。茶色い羽の鳥が、こっちだよって。この人、それを追いかけてた」
「そんな馬鹿な……」

 遠巻きに人々のささやく声が、ざわざわ、ざわざわと押しては返す。
 硬いアスファルトに横たわる青年の顔はどこか、幸せそうに笑って見えた。






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