「お前なんて生まれてこなければよかったんだ」
 その言葉は呪詛のように心を蝕んだ。
「化け物め…!」
 忌わしいものを見るように向けられた瞳はアメシスト。
 暗く、冷たく、無機質な、紫色だった。


「アスラン、どこにいるの?」
 自身の名を呼ぶ声に、アスランは抱えていた膝をきゅっと引き寄せた。扉も窓もすべて閉め切った室内。 その暗闇に溶け込もうとするように、息をひそめて小さくなる。
「アスラン?」
 近づいてくる声。気付かれないように。そのまま、通り過ぎるように。
 そんなアスランのささやかな願いをしかし、天が聞き届けることはなかった。
 ガチャリと扉の開く音。外から差し込む陽光が闇を部屋の隅へと追いやり、身を隠すもののなくなったアスランは 呆気なく見つかった。
「今日はここにいたのね」
 相手に顔を見せまいとするように。そして、相手の顔を見なくていいように。自身の膝に額を押しつけるようにうつむく。
 ふっと陰った明りと気配とで、声の主が目の前までやってきたことがわかる。そしてその人が、 隣に並ぶように床に腰を下ろしたことも。
「今日はね、アスランにお土産があるのよ。何だかわかる?」
 アスランが何の反応も返さないことなど一向に気にしない様子で話を続ける。
「これ、最近できたばっかりのお菓子屋さんで買ってきたの。いつもすごい行列でね、張り切って並んできたわ」
 くすくすと楽しそうな笑い声。
「実は私も初めて食べるんだけどね。………うん、美味しい」
 時々もぐもぐとしながら、隣のその人は色々と喋った。今日の出来事や、誰と会って、何を話したのか。 そんな他愛のないことを一人喋る。
「さて、そろそろ仕事に戻らないと。それじゃあアスラン、私は行くけれど、 お菓子はここに置いていくから気が向いたら食べて頂戴」
 よいしょ、という小さなかけ声と共に立ち上がる気配がする。
「行ってきます、アスラン」
 『さようなら』でなく『行ってきます』と、その人はいつも言う。自分は必ずまた、アスランの元に帰ってくるのだと 言い聞かせるかのように。
 そして今日もまた『行ってきます』と言い置いて、その人の気配は遠ざかっていった。
 しばらくして、辺りに先ほどまでの静寂が再び戻る頃になってから、アスランはゆっくりと顔を上げた。 あの人が扉を開けたままに行ってしまったため、部屋の中には一筋の明かりが差し込みわずかに明るい。 その床に、小さな紙袋が置いてあるのを見つけた。なんとなくアスランは、その紙袋に手を伸ばした。 中身に興味があるのかと訊かれたら、おそらく否と答えるだろう。アスランにとっては本当にただ、なんとなくの行動なのだ。
「………」
 紙袋を手に取って中を見る。たくさんの、色とりどりのものたちに驚いた。こんな綺麗な食べ物を、 アスランは今まで見たことがなかった。見た目につられて一つ口にしてみれば、甘さと共にさくりと溶ける。
 夢中になって、アスランは次々とそれを頬張った。


 どうしてだろうと、考えたことがある。答えはすべてアスラン自身の中にあった。
 アスランが化け物だから、母親を殺してしまった。
 アスランが化け物だから、父親は帰ってこなかった。
 アスランが化け物だから、皆、遠くに行ってしまう。
(僕が化け物だから…)


「………?」
 誰かが傍にいる。アスランの頬を撫で、頭を撫でる。優しい手のひら。
 アスランが目を覚ましたことに気が付いたのか、手はすっと離れていった。思わず、その温もりを目で追いかける。
「ごめん、起こしたね」
「………」
「ただいま、アスラン。遅くなってごめん」
 今日も、その人は帰ってきた。
 アスランがこの家にやってきてから毎日繰り返される、『行ってきます』と『ただいま』。 その暖かい響きに慣れてしまいそうな自分がアスランは恐ろしかった。どうせこの人も、やがてアスランから離れていくのに。
「………僕に、近づかないで」
 近づかれたら、近づきたくなってしまう。
 触れられたら触れたくなってしまう。
 傍にいたい。話がしたい。優しくされたい。愛して欲しい。
 そうなったら今度こそアスランは、きっと耐えることができないだろう。一人きりではいられなくなってしまう。
「僕は化け物だから。生まれてこない方がよかったんだから。だから、僕に近づかないで…」
 久しぶりに声を出したせいで、少ししか喋っていないのに喉が痛む。呼吸をするだけで乾いた咳が出た。
「…アスランが化け物だっていうのなら」
 唐突に。何もないはずの虚空に、紅が咲く。開き散った花弁の一片一片が鱗となって、生まれ出でたその蜥蜴に似たものは 地面を歩くときと同じ悠然とした足取りで空を踏み、その人の左の肩に納まった。感情の見えない焔の瞳がアスランを見下ろす。
「私は、化け物の大親分ってとこかしら」
 おどけた物言いとは裏腹に、その目はとても真剣で。
「アスランと私は同じよ。同じ人間で、化け物で、そして魔法使い」
「魔法、使い…?」
「今のままでは恐ろしい化け物かもしれない。けれど、努力次第で素晴らしい魔法使いになれる可能性も持っているの」
 その人がすっと差し出した手のひらの上に、紅色の蜥蜴が器用に飛び乗る。そしてくるりと丸くなると、更にその姿を変えた。
 はい、と渡されたそれを思わず受け取る。ほのかに明るく、暖かい。アスランの手にすっぽりと収まる大きさの玉の真ん中で、 蜥蜴の瞳と同じ焔がちろりと揺れた。
「アスランにもできるわ。そうすれば、もうアスランは化け物なんかじゃない」
 自身の手の中にある玉をアスランは一心不乱に見つめた。
「ちゃんと力の使い方を覚えて、それでもまだアスランを化け物なんて呼ぶ奴がいたら、私がやっつけてあげる」
 玉を持つアスランの両手を、その上からそっと包み込まれる。
 暖かいのは握りしめた焔の玉か、重なり触れ合う手のひらか。
「ねぇアスラン。アスランはきっと、たくさんの人に必要とされる人間になれるわ。 だから生まれてこない方がよかったなんて言わないで」
 その人の茶色の瞳が微笑む。とても暖かくて、そして優しい色。
「少なくとも私は、今こうしてアスランと一緒にいられて嬉しいわ。楽しいの」
「………本当に」
 凍て付いたゆるゆると心が溶けていくようだった。アスランの中で、いくつもの思いが奔流となって溢れ出る。
「本当に僕は、生まれてきてよかったの…?」
「絶対よ。私が保証する」
 迷いの欠片もない断言にとうとう堪え切れなくなって、アスランは思い切り、声を上げて泣いた。


「アスラン」
 呼ばれて、アスランは顔を上げた。
 いつのまに来たのか、目の前に立つその人を見上げる。
「また本を読んでいたのね」
「うん。まだまだわからないことだらけだから、もっと勉強したいと思って」
「そっか、アスランは偉いね」
 よしよしと頭を撫でられた。少しくすぐったいけれど、心地いい感覚。
「お土産を買ってきたの。この前のお菓子屋さんの新作なのよ。ひと休みにして一緒に食べない?」
「うんっ!」
 大きく頷いたアスランを見る瞳が優しく細まる。
「ただいま、アスラン」
「お帰りなさい、サラ」
 大切な時間。大切な場所。大切な人。
 今度こそなくしてしまわないように。
 守りたいと、そう、思った。






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