ふと、ギルフォードは足を止めた。
 隣を歩いていたラーイもやはり同様に立ち止まっている。
「…なんだか賑やかですね」
「そうだな」
 偶然通りすがった、厨房がやけに賑やかだ。ギルフォードとラーイと、なんとなく二人で顔を見合わせて、 入り口の陰にから厨房の中を覗き込んだ。
 この厨房の主である壮年の男がおろおろした様子で立ち尽くしている。他の料理人や見習いたちも、似たり寄ったりな状況だ。 そしてその視線の先でなにやら忙しく働いているのは、男たちの主人であり青の宮の主人である、青竜の巫子の少女だった。
「巫子様、召し上がりたいものがあるのでしたら、申し付けて下されば私が作りますから…」
「食べたいよりも、作る方が目的なんです。あ、それとも…ここにいたら、邪魔ですか?」
「いえ、そんな…邪魔などでは……」
「すみません、急に我儘を言ってしまって。でも邪魔だったら、本当に言って下さいね」
 料理長たちは心配そうな眼差しで見ているが、少女の手際はいい。喋りながらも手を止めず、てきぱきと動いている。 なんだかとても楽しそうな後姿。やがて少女は、無意識なのだろうか、小さく歌を口ずさみ始めた。
 流行りの歌ではない。聖歌隊にいたと言っていたから、その頃に歌っていたものだろうか。聞き覚えのない、しかし心に残る。 歌そのものというよりも、歌い手の技量によるものかもしれない。誰かに聞かせようとして歌っているわけではないのだろうが、 聞き手を魅了して放さない。
「………」
 中に声をかけることもせず、そこから立ち去ることも忘れて、ギルフォードはただ少女の歌う背中を眺めていた。
「………見事なものですね」
 傍らから聞こえた声に、はっと我に返る。
「巫子様の歌をお聞きするのは初めてですが…正直、予想以上です」
「ああ…」
「……ギルフォード殿。一つご相談なのですが」
「相談?」
「ええ。実を言うと、今日は朝から働きづめで少々疲れているんです。ちょうど、休憩したいと思ったところだったんですよ」
 笑みを含んだラーイの瞳に、その言わんとするところを悟って、ギルフォードは破顔した。
「そうだな。実は、俺も疲れていたんだ。疲れたまま仕事をするのはよくないな」
「やはりギルフォード殿もそう思いますか」
「勿論だ」
 共犯者二人、視線を交わす。
 そしてどちらともなく切り出した。
「ここで休憩しないか」
「ここで休憩していきましょう」
 二人の声が、ぴったりと重なった


「…こんなところで何をしているんですか」
 質問したカイの方をちらとも見ようとせずに、アスランは短く答えた。
「見てわからないのか。本を読んでいるんだ」
「それは見ればわかります。なぜ、こんなところで本を読んでいるのかをお聞きしたいのですが」
「どこで本を読もうと、僕の勝手だろう」
 確かにその通りだ。読書は書庫でしなければいけない、などという決まりごとがあるわけではない。
 しかし、いくらなんでもこんな芝の上で本を読まなくてもいいのではないかとも思う。きちんと手入れが行き届いているとはいえ、 この国の宮廷魔法使い筆頭たるアスランが、芝に座り込み木の幹を背もたれに読書をしていたら、一体何事かと思ってしまう。 実際カイは座り込むアスランの姿を遠くから見かけて、こうして駆けつけてきたのだ。
「アスラン様…」
「静かにしろ」
 じろりとにらまれて、思わずカイは口を閉ざした。
 その瞬間、微かな音がカイの耳に届いた。
「歌…?」
 頭上から歌が降ってくる
 どこから聞こえてくるのかと辺りを見回して、カイは今いるこの場所が、ちょうど青竜の巫子の居室の下にあたることに気が付いた。 三階建ての建物の最上階、巫子のためにしつらえられたその部屋の、開け放たれた窓から歌は流れ出している。バイオリンの音色を 伴奏に、空に旋律が紡がれていく。
 聞き惚れた。状況も何もすべて忘れて、ただ耳を傾ける。やがて歌が終わり、余韻が空気を震わせて消えていく頃になって、 ようやくカイは今の状況を思い出した。
 はっとしてアスランを見ると、つい先ほどまでとまったく同じ姿勢で木に寄りかかっている。吹き抜ける風が髪を乱し、 本のページを一枚めくって去っていった。読書に適した環境とは到底思えないが、それでもアスランはこの場所から動こうとはしない。
 瞬間、カイはぴんときた。
「アスラン様、もしかして歌を聞くために…」
 わざわざこんな所で読書をする理由など、カイの頭ではそれくらいしか思いつかない。
「本を読んでいるだけだと言っただろう。なぜ僕が、巫子の歌など聞きに来なければいけないんだ」
 いつもと変わらないアスランの態度。しかし一瞬、その目が泳いだのをカイは見逃さなかった。内心の動揺を表すような、 たった一瞬の行動。
「…なんだ、その目は。僕がどこで何をしようとお前には関係ないだろう。さっさと立ち去れ」
 ひどく嫌そうな顔で、しっしっと犬の子を追い払うようにする。そしてふい、と視線をそらして、ぽつりとつぶやいた。
「………巫子なんて、僕には何の関係もない」
 むすっと引き結ばれた唇と、しわの刻まれた眉間。不機嫌を絵に描いたようなアスランだったが、 その頬は微かに赤く染まっていた。


「………歌ってる」
 遠く、常人には聞こえないはずの歌声にオルフは耳を澄ました。胸の奥がざわざわするような感じ。初めて巫子と出会ったあの日も、 こうして歌を聞いたのを思い出す。
 オルフの半分もまだ生きていないような、年若い人間が時として、こんな風に強く心を揺さぶる。いまだ不思議に思うと同時に、 好ましくもあった。弱くて強い。そんな人間が愛しい。
「顔が見たいな」
 最近ではお互いに忙しいせいで、まったく顔を合わせていない。
「……少しなら、問題ないか」
 誰にともなくつぶやいて、さっとオルフは踵を返した。


 この宮殿には時折セイレーンが現れる。
 セイレーンは、今日も元気だ。






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